事の発端は、安永8(1779)年10月に後桃園天皇が亡くなったことにある。皇嗣がまだ決まっていなかったことから、急きょ、閑院宮典仁親王の第6皇子が後桃園天皇の養子となり、皇嗣に定められた。翌年の安永9(1780)年12月には即位式が行われている。のちに光格天皇と呼ばれる人物である。
このときに困ったのが席順だ。というのも、光格天皇の養父にあたる後桃園天皇が亡くなっており、実父の閑院宮典仁は親王である。慶長20(1615)年に制定された「禁中並公家諸法度」によると、親王は太政大臣、左大臣、右大臣の「三公」の下に位置づけられている。つまり、典仁親王は天皇の実父でありながら、臣下である三公のあとに座ることになってしまい、これはいかにも具合が悪い。
かといって「禁中並公家諸法度」は朝廷と公家を統制するために幕府が制定した基本法令であり、変更するのは簡単ではない。であるならば、方法は一つ。典仁親王に「太上天皇」の称号を与えれば、席順の問題は解決する。
「太上天皇」とは上皇のことで、天皇が譲位したのちの称号となり、これまでも、承久3(1221)年には 後堀河天皇の父・守貞親王に後高倉院と太上天皇号を贈っている。 また結局は辞退となったものの、 文安4(1447)年には後花園天皇の父・伏見宮道欽親王に後崇光院と太上天皇号を贈ったこともあった。
前例があることだけに問題ないだろうと朝廷側は考えていたようだ。寛政元(1789)年8月には天皇の意向が文書で所司代に渡されて、幕府のもとへと伝達されることになった。
ところが、幕府からの答えは「慎重に評議することを求めたい」というものだった。幕府側に強固に反対した人物がいたからだ。そう、老中首座の松平定信である。
引き合いに出された「敦明親王」
定信はあくまでも「太上天皇」の尊号を冠するのは、天皇の地位についた者のみ、という原則にこだわった。関白の鷹司輔平(たかつかさ すけひら)に「君臣の名分を私情によって動かすべきでない」と回答している。
朝廷が挙げた2つの先例についても、「いずれも承久、応仁の時の儀」として、戦乱のときがゆえに平時とは事情が違う、と例外を認めなかった。
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