「凶年は珍しいことではない」 松平定信が天明の大飢饉に直面してまずやったこととは

天明の大飢饉が発生
天明2年(1782)の春、後に徳川幕府の老中となる松平定信は、飲食もしがたい状態となっていました。何が要因かは不明ですが、口中が腫れてしまったからです。医者に診せても、なかなか治らず。ついに、顎の辺りの腫れ物を切ったところ、膿水が多く出たとのこと。その年の1月から8月まで、定信は腫れ物に悩まされて、書物もろくに読めなかったそうです。
明けて、天明3年(1783)は、春は雨はほとんど降りませんでしたが、4月以降は雨が降り続き、それは8月・9月頃まで続きました。
太陽が顔をのぞかせず、曇りの日が多かったので、朝顔のつるも伸びない状態でした。こうしたありさまに、誰もが心配になったようです。そうした中、7月に浅間山が噴火。江戸にも灰が降り、それにより日は陰ります。灰が降った山は、雪が降り積もっているかのように見えたとのこと。これが有名な天明の大噴火です。
定信の養父で白河藩主の松平定邦は、8月末に江戸に参勤しますが、白河藩も「凶年」(農作物の実りの悪い年)でした(火山灰が日光を妨げて、天候不順が加速し、いわゆる天明の大飢饉が発生したとも言われています)。
飢饉が発生するなどとは思いもよらず、白河城下にはコメの蓄えはありませんでした。また、家中では酒を好む風潮があり、コメは売られていました。城下でもそのような状態でしたので、城外はなおさら、ひどいありさま。
同年、定邦は養子の定信に家督を譲るつもりでしたが、凶年に譲るのもいかがかと思い、逡巡していたようです。そうしたとき、定邦がいる江戸に赴いたのが、白河藩の家老・吉村又右衛門でした。
吉村は定邦に「この凶年に人々は恐々としております。定信様に家督を譲れば、人々は安堵するでしょう。家督をお譲りになるのは、このときをおいて他にありません」と直訴。
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