「凶年は珍しいことではない」 松平定信が天明の大飢饉に直面してまずやったこととは

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小
イメージ(写真:terumin K / PIXTA)
イメージ(写真:terumin K / PIXTA)
今年の大河ドラマ『べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~』は横浜流星さんが主演を務めます。今回は松平定信は天明の大飢饉に際してどう振る舞ったかを解説します。
著者フォローをすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。

天明の大飢饉が発生

天明2年(1782)の春、後に徳川幕府の老中となる松平定信は、飲食もしがたい状態となっていました。何が要因かは不明ですが、口中が腫れてしまったからです。医者に診せても、なかなか治らず。ついに、顎の辺りの腫れ物を切ったところ、膿水が多く出たとのこと。その年の1月から8月まで、定信は腫れ物に悩まされて、書物もろくに読めなかったそうです。

明けて、天明3年(1783)は、春は雨はほとんど降りませんでしたが、4月以降は雨が降り続き、それは8月・9月頃まで続きました。

太陽が顔をのぞかせず、曇りの日が多かったので、朝顔のつるも伸びない状態でした。こうしたありさまに、誰もが心配になったようです。そうした中、7月に浅間山が噴火。江戸にも灰が降り、それにより日は陰ります。灰が降った山は、雪が降り積もっているかのように見えたとのこと。これが有名な天明の大噴火です。

定信の養父で白河藩主の松平定邦は、8月末に江戸に参勤しますが、白河藩も「凶年」(農作物の実りの悪い年)でした(火山灰が日光を妨げて、天候不順が加速し、いわゆる天明の大飢饉が発生したとも言われています)。

飢饉が発生するなどとは思いもよらず、白河城下にはコメの蓄えはありませんでした。また、家中では酒を好む風潮があり、コメは売られていました。城下でもそのような状態でしたので、城外はなおさら、ひどいありさま。

同年、定邦は養子の定信に家督を譲るつもりでしたが、凶年に譲るのもいかがかと思い、逡巡していたようです。そうしたとき、定邦がいる江戸に赴いたのが、白河藩の家老・吉村又右衛門でした。

吉村は定邦に「この凶年に人々は恐々としております。定信様に家督を譲れば、人々は安堵するでしょう。家督をお譲りになるのは、このときをおいて他にありません」と直訴。

次ページついに白河藩主に、そのとき定信は…
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事