「凶年は珍しいことではない」 松平定信が天明の大飢饉に直面してまずやったこととは
定信は国元(白河)には、多くの女性を連れて行かず「老女」1人を連れて行きました。人々はこの事を「若いのに、召し使いの女性を多く連れて行かないのはどうなのだろう」と不思議がったようですが、定信に言わせるとそれは「一つの慎み」でした。
このような時節に、婦女をたくさん連れて国元に参るのもいかがなものかと定信は考えたのです。
白河に多くの女性を連れて行かなかったワケ
天明4年(1784)、定信は側室を病で亡くしています(定信の正室は、松平定邦の娘でした)。同年4月頃より病んでいたようですが、療養の甲斐なく、亡くなってしまうのです。
定信の自叙伝『宇下人言』には、その側室を定信が「いと愛したりければ」との言葉が出てきます。とても愛していたとの意味です。愛していた女性が亡くなったことで、定信は憂い悲しんだといいます。
飢饉に備えて、自ら率先して質素倹約の手本を示した定信。多くの婦女を白河に連れて行かないことで、苦難に直面する人々の気持ちに寄り添った定信。定信は率先垂範の指導者だったのです。
(主要参考文献一覧)
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)
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