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「凶年は珍しいことではない」 松平定信が天明の大飢饉に直面してまずやったこととは

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これにより、定信への家督譲渡が決定したと『宇下人言』(定信の自叙伝)は記しています。天明3年(1783)10月、定信は白河藩主となるのです。

家督を継いだ日、家老に告げたこと

家督を継いだその日、定信は家老を呼んで、次のように申し渡しました。

「凶年は珍しいことではない。今までなかったことは幸いである。よって、驚くことではない。凶には凶の備えをなすのがよい。このときに乗じて、倹約・質素の道を教えて、磐石の固めとする」と。

翌日には、江戸にいる家臣をすべて書院に呼び、定信は「倹約・質素は我を手本とせよ」と告げるのでした。

それからというもの、定信の膳は減り朝夕「一汁一菜」、昼「一汁二菜」となります。そして、自ら綿服を着たのです。

家中へ与えるコメが良くないと聞けば、コメと臼を取り寄せて、庭でつかせることもありました。

定信は藩主となって以降、常に「政事」(政治)のことを考え続けてきたといいます。藩の要職にある者と議論し、食事の間でさえも政治のことを忘れませんでした。夜寝るときも、すぐには就寝せず、深夜まで起きて、政治のことをあれこれと考えていたのです。定信は「ただ国安(やす)かれ」(国が安泰であれ)ということを思い続けたのです。

翌年(1784年)の春には飢饉はしのぎがたいという話があったので、乾葉や干魚を用意して、江戸から白河に送ります。

天明4年(1784)6月、定信は江戸から白河に下ります。凶年であるので、装いはすこぶる簡素にしたそうです。しかし「具足櫃」(具足を納める櫃)だけは2つ用意し、持参したとのこと(それまで、具足櫃は1つだけでした)。なぜか。1つだけだと武備が薄いと定信が感じたからです。倹約の最中だからといって武備を欠くことはしないという定信の精神を示したのです。

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【白河に連れて行った女性は、老女ひとり】

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