「競争」から降りて自分らしく生きるにはどうすればいいか?――哲学者が教える「人と争う心が自分を壊す理由」

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ここで学校に対して使われている「格付け機関」という言葉は、先ほどの「列」と同じようなものと考えることができます。

競争原理の最適化で「いじめ」は発生

内田は学校でいじめが発生する要因を「格付け」における「列」の構造に求めます。

列において、互いの価値は互いの位置によって測られるもので、誰が実際にどんな能力を持っているかは重要ではありません。したがって、自分が列の前に行くためにやるべきこととして、努力による能力の向上以外に、他人を引きずり落とすことが有力な選択肢として浮上するのです。

努力することでペーパーテストの順位をひとつ上げることと、誰かを──たとえば学校に来ることが嫌になるように仕向けることによって──出し抜くことで順位をひとつ上げることは、「列」の構造上はまったく同じ価値を持ちます。

競争原理に最適化し、自分の序列を上げていくための合理的な判断の積み重ねによって「いじめ」がつくり出されていくのです。

競争は、私たちが価値のあることを成すためにとても重要な役割を果たしています。それどころか、それまでどこにも価値が見当たらなかったところに、「他人よりも前にいる」という尺度を持ち込むことで価値をつくり出してしまう、非常に強力な仕組みでもあります。

本来であれば、競争によって得られる価値は、競争そのものとは別に見出すことができるはずです。

つまり、勝ち負けという結果とは別に、その競争を通じて何かができるようになったり、精神的に成長したりといったふうに、実質的な価値を手にすることができるはずです。

しかし、競争の仕組みにとらわれてしまうと、何か価値のあること(目的)を競争(手段)によって成し遂げるという、もともとの構図がいつの間にかひっくり返って、誰かの前に立つことそのものが目的になり、誰かの前に立っていなければ価値がないのだと信じるようになってしまうのです。

そうなると「誰かの前に立ってさえいればいいのだ」と、価値を追い求めることと誰かを蹴落とすことが結びついてしまう。これが「競争が互いを苦しめる」カラクリです。

誰かを蹴落とすことが選択肢に入り込んでしまう競争のもうひとつの欠点は、たとえ誰かの前に立つことができたとしても、競争することに没頭する人たちの自己が傷ついてしまう点にあります。

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