「競争」から降りて自分らしく生きるにはどうすればいいか?――哲学者が教える「人と争う心が自分を壊す理由」

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こうして、私たちはつねにお互いの位置を、上下左右前後を見渡しながら測り続け、修正し続けるゲームから逃れられない。中村の『列』はこのような状況を戯画的に示したうえで、ひとつの結論、というか結末を示しています。

それがどのようなものなのかは、ぜひ作品に当たってみてください。

競争は自分を疲弊させるだけでなく、そこに参加するお互いを苦しめ続けてしまう、という『列』の洞察を先ほど取り出しておきました。

これは考えてみると少し不思議な主張です。というのも、ひとつの高みに向かってめいめいがひたむきに努力しているだけであれば、結果に喜んだり悲しんだり、ということはあっても、互いに苦しめ合うような事態にはならないはずだからです。

それを理解するヒントになるのが、内田樹による「呪い」の議論です。

競争で私たちが疲弊してしまう理由

内田は、ペーパーテストの点数競争をあおるような教育の在り方を批判しています。私は、この議論の中に、競争において私たちが疲弊してしまう理由が的確に言語化されているように思います。

競争の中には、互いを苦しめ合うように私たちを仕向ける構造が確かにある。それを内田は、ペーパーテストの結果にしたがって生徒たちを格付けする「格付け機関」と化してしまった学校への批判の中で、指摘しています。

自分が属する集団のパフォーマンスをどうやって向上させるか、仲間をどうやって成長させるか、どうやって支援するかということには関心が向かわず、それよりはむしろどうやって仲間の成長を阻害するか、どうやって足を引っ張るか、そちらの方に知恵が回る。もちろん、そんなことばかりやっていれば集団としてはどんどん力が落ちるに決まっているわけですけれど、それはあまり気にならない。別に心根が邪悪なわけじゃないんです。格付け機関化した学校では「そうしろ」って教えているからです。仲間が生きる意欲を失うことは、競争相手が一人減ることだから、それは歓迎すべき事態であると教えている。「いじめ」というのは構造的に作り出されているのです。
内田樹『複雑化の教育論』
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