火災時には“延焼の危険”、今ではタワマンも林立する「都内屈指の長屋の街」。街をつくった100年前のデベロッパー「越後三人男」の正体とは?

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越後三人男がなぜ東京に来たのか…は謎のまま

このような街の礎を築いた越後三人男だが、彼らがなぜ越後から東京にやってきたのか、その理由は深井さんもわからないという。

山本俊哉教授
山本俊哉教授(筆者撮影)

曳舟・京島地域の都市計画を研究する明治大学の山本俊哉教授は次のように語る。

「そもそも当時、東京で仕事をしていた大工さんは新潟出身の人が多かった。出稼ぎで来ていたのですね。明治時代の中頃は新潟県って日本でもっとも人口の多い地域でした。

でも雪国ですから、冬は仕事が少ない。だから出稼ぎに出る。田中角栄も、東京に出てきて戦前、建設会社を立ち上げた。

タワマンだけじゃない街
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中央区月島地区にも新潟の人たちがつくった長屋が多いと言われています。また、土地を購入して長屋を自ら建て、関東大震災後に借地借家経営をしていた。

ただ、この手の話は文書が残っていないことが多く、伝聞で辿るしかないのですが、越後三人男もそういう形で今でいう“デベロッパー”になったのでしょう」(山本教授)

100年前、越後三人男が建てた長屋が人々の暮らしを支えたように、今また新しいデベロッパーが未来の生活を形づくっている。

【もっと読む】23区なのに「古墳と渓谷」秘境がある街の"実態" では、世田谷区・等々力を街に詳しいライターの末並俊司さんが訪問。豊富な写真とともに、その魅力をお伝えしている。 
末並 俊司 ライター

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すえなみ・しゅんじ / Shunji Suenami

福岡県生まれ。93年日本大学芸術学部を卒業後、テレビ番組制作会社に所属。09年からライターとして活動開始。両親の自宅介護をキッカケに介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)修了。現在、『週刊ポスト』を中心として取材・執筆を行っている。

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