火災時には“延焼の危険”、今ではタワマンも林立する「都内屈指の長屋の街」。街をつくった100年前のデベロッパー「越後三人男」の正体とは?

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100年前に当時のデベロッパーである越後三人男によってつくられた街は、現代のデベロッパーがバトンを受け取り、より高度な進化を遂げているようだ。

タワマンとアートがある街「曳舟」

東京藝術大学がある上野から近いこともあり、曳舟・京島地域には、近年アーティストが多く移り住むようになっている。そうした動きの背景には、前出の深井さんの存在もある。

曳舟の長屋
約100年前に深井豊吉が建てた長屋(筆者撮影)

「私は大学を卒業後はずっとサラリーマンをしていて、家業を継いだのは2010年のことです。いろんな開発業者やテナント希望社から電話やDMがありました。一日に5〜6件、週で40件くらいになったこともあります。うちは表通り、とくにバス停近くの場所に土地を多く持っているから、魅力的に映ったんでしょうね」

と深井さんは笑う。

「でも、大きなビルやマンションを建てることで、この町の“らしさ”を削いでしまわないか――。そこが引っかかった。この街らしさを考えたときに、思い当たったのがこの一帯が葛飾北斎のゆかりの地で、その気風を受け継ぐ“職人の町、アートの街”であることです。

代替わりしてすぐのころからスカイツリーが開業するまで、谷中や蔵前、また山の手に住む20代後半、30代のアーティストから、長屋を貸してほしいと問い合わせが増えました。

きっかけは東京藝大出身の人です。会って話を聞いてみると、信頼できる人だった。だから相談に乗って長屋をお貸しすることにしたんです。そこから口コミで広がっていったようです。

そもそも絵とか彫刻なんかをやってるアーティストって部屋を借りにくいらしいんです。『彼らは収入が不安定だし、部屋を汚すだろうによく貸しますね』と不動産仲介の会社や周りから言われました。

でも、私にできることなら叶えてあげたい、との思いだったんですよね。今では多くのアーティストが京島に住んでいます」(深井さん)

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