火災時には“延焼の危険”、今ではタワマンも林立する「都内屈指の長屋の街」。街をつくった100年前のデベロッパー「越後三人男」の正体とは?

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また、片桐洋三となっているのは“片桐興蔵”の間違い。地域の人たちへの聞き取りによる調査だったから、そうした間違いがあったのだろう。

1884年生まれの深井豊吉は、16歳のときに越後(新潟県)から大工の見習いとして上京した。39歳のときに関東大震災が発災し、そこから京島地区に長屋の建設を開始したという。

「祖父の深井豊吉は、長屋を大通り沿い(特にバス網が充実してきてからは、バス停の付近)に建てることを基本方針にしていたようです。曳舟と京島を分ける四ッ目通りや、京島地区を取り囲む明治通り、十間橋通りに沿った表側に多くの長屋を建てました。最盛期には数百戸ほどもあったようです」(深井氏)

深井豊吉は大工として長屋を建てるだけではなく、土地を買って物件を建て、その経営までこなした。今で言う「デベロッパー」として、土地と物件を見ていた。

「豊吉さんは、『朝は人が起きる前に一仕事、昼は普通に働いて、夜は寝る前に一仕事』これを自分に課していたと聞いています。だからこそ、こんなにたくさんの土地を買い、長屋を建てることができたのでしょうね。

長屋の経営は主に豊吉さんの娘、深井セキがやっていました。私の祖母にあたる人です。セキさんは経営者としての腕も一級品で、私が子どもの頃から商売についてもいろいろなことを教えてくれました。だからこそ、私も今の仕事ができているわけです」(深井さん)

100年後の今、曳舟・京島地区には現代のデベロッパーが入り、開発を進めている。

100年後のデベロッパー「UR都市機構」

イーストコア曳舟
中央のビルがイーストコア曳舟(筆者撮影)

曳舟のランドマークとも言える「イーストコア曳舟」の開発を行ったUR都市機構の大野友平さんは次のように語る。

「2001年にイーストコア曳舟の再開発が都市計画決定されました。UR都市機構だけの事業ではありませんが、現在イトーヨーカドーなどが建っているエリアです。これ以外にも、URは、木造住宅密集地の京島地域でも整備を行っています。コンセプトは“ボトムアップ+バリューアップ”です」(大野さん)

大野友平さん
UR都市機構 密集市街地整備部 大野友平さん(筆者撮影)
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