「日産vsトヨタ」昭和の四季報25年分を読み込んでわかった分岐点

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(画像:「会社四季報」1983年秋号)

さらに、1983年にはイギリス進出問題で労使の対立も表面化、苦しい状況が続く。

一方で、トヨタ自動車は、1982年にトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が合併し、製販一体の効率的な経営体制を構築した。

(画像:「会社四季報」1982年夏号)

この頃はまだアメリカでの単独での現地生産には慎重な姿勢で、最終的にGMなどとの合弁という形で海外進出したとの記述がある。円安も追い風となり、1984年には「空前」、1985年には「快走」と見出しが並び、過去最高益を更新していた。

(画像:「会社四季報」1984年夏号)

両社の戦略の違いがその後に影響も与えたか

1961年から1985年までの25年間にかけて、日産とトヨタは、共に急成長した時代だが、特に80年代初頭の海外進出には違いが見られた。日産は積極的に海外での生産も行った一方、国内でのシェア争いでは後退していった。

一方でトヨタ自動車は国内生産・販売を盤石なものとして、当初は慎重な姿勢で海外進出に挑んだ。この選択が、両社間に収益性の差をもたらし、その後の勢力図に大きな影響を与えた面があるだろう。

田中 久貴 東洋経済データ事業局

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たなか ひさたか / Hisataka Tanaka

2013年東洋経済新報社入社。上場企業の財務データの編集やデータベース販売に関わった後、現在は企業調査部で『就職四季報』などの編集を行う。

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