「日産vsトヨタ」昭和の四季報25年分を読み込んでわかった分岐点

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(画像:「会社四季報」1975年秋号)

この時代に、世界で日本車の競争力が高まり、輸出が増加していったことが読み取れる。

1980年代に見られた輸出の自主規制

1980年代は、今の関税問題とも似てくるが、日米貿易摩擦を背景とした輸出自主規制が大きな経営課題となる。これを機に、両社は本格的な海外生産へと舵を切ることになる。しかし、両社の踏み出し方は少し異なっていた。

日産は、1980年に入り海外展開を急いだ。1980年にスペインの自動車メーカー、イベリカに資本参加、イタリアのアルファ・ロメオとも提携を進め、それぞれ合弁での生産を始める。アメリカ・テネシー州にトラック工場の建設を決定。さらにイギリスでの乗用車生産も計画するなど、積極的な拡大を推進した。

1979年新春号の段階で「シェアダウン目立つ」など国内販売の不振に関する記述がみられたが、80年代の投資も大きな負担になり、1983年には「販社支援費で再減益」となり、国内体制の立て直しに苦言を呈する記述が記載されるようになった。

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