「日産vsトヨタ」昭和の四季報25年分を読み込んでわかった分岐点

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プリンス自動車合併(画像:「会社四季報」1966年秋号)

こうして、生産規模でトヨタと互角に渡り合う体制を整え、自動車業界の首位獲得への意欲を鮮明にしていた。

トヨタも積極的に工場を拡充

一方のトヨタ自動車は、1961年新春号で価格を抑えた期待の大衆車を発表し、他社にも注目されていたことが記載されている。トヨタも同様に積極的に工場を拡充しつつあり、「(昭和)三六年夏には二万台とする計画」に向けて邁進していた。

(画像:「会社四季報」1961年新春号)

その後、1966年には主力乗用車のカローラを生産する高岡工場を建設するなど、生産体制を増強していた。1967年の四季報には「年産一〇〇万台を目ざして」新工場の建設に着手したとの記述がある。資金の大半は自己資金で調達可能との記載があり、すでに自己資金に一定の余裕があったことも読みとれる。

(画像:「会社四季報」1967年春号)
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