「IKEAが世界で唯一征服できなかった国、それは日本」 ニトリとドンキの創業者が語る≪2兆円企業≫になれた”本当の理由”

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安田:実行する勇気がなくて良かった。でも意外ですよね。こんなに明るい似鳥さんが、自殺まで考えるなんて。

似鳥:そのころ、知人から誘われて、アメリカの家具店を視察するセミナーに参加したんです。アメリカに行くお金なんてもちろんないから、問屋さんに頼んで40万円を借りて行きました。そこで人生観がガラッと変わりました。

百貨店のシアーズや家具チェーンのレビッツなどを見て回ると、とにかく豊かで、日本は60年ぐらい遅れていると。品質はもちろん、色やデザインが部屋全体でコーディネートされている。しかも安い。別世界で、夜も眠れないほど興奮しました。

一緒に回った人は「アメリカは食べる物も、家も、文化も違うから」と言ってたけど、アメリカ人も日本人も、同じ人間でしょう。日本人はこの豊かさを知らないまま一生を終えるのかと思ったら、一生をかけてでも日本を豊かにする「暮らしの革命家」になってやろうと。それからはとにかくアメリカのことを勉強しようと思って、頻繁に現地に飛ぶようになりました。

ロマンを持つことが大事

安田:さっきまで死のうと思っていたのに、アメリカに行ったら、やる気マンマンに?

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似鳥:嫌なことや、失敗を忘れるのは、わりと早いですね(笑)。

安田:人生は紙一重ですね。狭い世界で追い詰められていたのが、アメリカに行って「こんなやり方があったのか」と視点がガラリと変わった。

似鳥:「日本人の暮らしを豊かにしたい」という志が生まれたことが一番大きかったです。私は「ロマン」と言っていますが、「人のため、世のため、人生をかけて貢献したい」という気持ちを持つことは大事です。それから、「ビジョン」ですね。30年で何ができるかを考え、最初の10年は店づくり、次の10年は人づくり、その次の10年は商品づくりをしようと計画を立てたのが私のスタートでした。

その計画を実行していくには、意欲と執念と好奇心が必要だった。鉄は熱いうちに打てということで、日本に帰ってきてすぐに出店場所を探して回りました。「ここだ」と思った場所がありましたが、地主さんに最初はバッサリと断られた。何回も通い続けて、7回目か8回目でようやく家の中に入れてくれました。人間、後ろ向きではよくない。前向きでやる気のある人にしか運は巡ってこないんじゃないかと思います。

安田 隆夫 PPIHグループ取締役(非常勤)創業会長兼最高顧問

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やすだ たかお / Takao Yasuda

1949年、岐阜県大垣市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、不動産会社に就職するも入社10カ月後に倒産。78年、東京・杉並区にわずか18坪のディスカウントショップ「泥棒市場」を出店。深夜営業でヒットし成功を収めるが、5年で売却し、卸問屋「リーダー」を設立。これも大きな利益を上げるが、小売業への再参入を決意し、89年「ドン・キホーテ」1号店を東京・府中に出店。幾多の失敗や苦難を乗り越えながら急成長を続け、創業以来35期連続増収増益という驚異的な偉業を達成。現在はPPIHグループ(旧ドン・キホーテHD)の取締役(非常勤)創業会長兼最高顧問

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似鳥 昭雄 株式会社ニトリホールディングス代表取締役会長

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にとり あきお / Akio Nitori

1944年、樺太生まれ。64年、札幌短期大学を卒業後、北海学園大学に編入。66年、北海学園大学経済学部卒業。67年、似鳥家具店を札幌で創業。72年、似鳥家具卸センター株式会社を設立。78年、社名を株式会社ニトリ家具に変更。86年、社名を株式会社ニトリに変更。2010年、持株会社(ニトリホールディングス)に移行。2016年、株式会社ニトリホールディングス代表取締役会長に就任。

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