のちに、そのことを幕府に問題視されると、重倫は平然とこう言った。
「あれは鉄砲を撃ったのではなく、 花火を打ち上げただけだ。 天下のご直参旗本が花火の音にうろたえるとは何ごとか」
さらに「鉄砲の玉に紀州の葵の印でもついているのか?」と、証拠がないことを主張した。

結局、この事件の影響で、重倫は隠居。和歌山に帰ることになったが、それで大人しくするような男ではない。鬱憤がたまっているせいか、より短気になり、いつでも刀を抜けるようにしていたという。
これだけ暴虐の限りを尽くせば、自分を恨んでいる相手が山ほどいることは自覚していたようだ。重倫は晩年にヒゲを伸ばし放題に伸ばしたが、それは他人にカミソリをあてられるのが怖かったからだったという。
次代の9代藩主は名君ぶりを発揮して領民に慕われた
「憎まれっ子世にはばかる」とは、よく言ったものだが、重倫は84歳という長寿をまっとうして、文政12(1829)年にこの世を去る。6代藩主・徳川宗直の次男である治貞が、重倫の養子という形で藩主を継いで、9代藩主となった。
先代とは打って変わって、9代藩主・徳川治貞は、非常に聡明なリーダーだった。8代将軍の徳川吉宗をみならって、自ら質素倹約に励み、財政再建へと尽力している。文武を奨励し、優秀な人材を積極的に登用。目安箱の設置など数々の政策を打ち出した。
その名君ぶりは全国にまで知られていたらしい。熊本藩の6代藩主・細川重賢と並んで、こう評されている。
「今の世に過ぎたるもの二つあり、紀州に麒麟、肥後の鳳凰」
「麒麟」をもじって「紀麟公」と呼ばれた治貞。「天明の大飢饉」が起きると、財政改革は停滞するが、藩庫を開いて米や銭を施したことで、他藩のように荒れることもなく領内は平穏だったと伝えられている。
寛政元(1789)年に治貞が惜しまれながら62歳で死去すると、重倫の次男で、治貞の養子である徳川治宝(とくがわ はるとみ)が後を継ぎ、19歳で10代藩主となった。
そんなふうに暴君から藩主の座を受け継いだのちに善政を行った紀州藩9代藩主・徳川治貞を、「べらぼう」では高橋英樹が演じることになる。ドラマでの治貞は、幕政への関与を強めていき、田沼意次を追い落とすことになりそうだが、どんな名君ぶりを見せるのだろうか。注目したい。

【参考文献】
小山譽城『徳川将軍家と紀伊徳川家』(清文堂出版)
グループイストゥワールF2編著『江戸「トンデモ殿さま」列伝』 (PHP文庫)
松木寛『新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』(講談社学術文庫)
鈴木俊幸『蔦屋重三郎』 (平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
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