「逃げまどう女中見て笑顔」蔦重と同時代に暴君ぶりを発揮した“大殿様”徳川重倫の狂気と跡継ぎの善政

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重倫はその図体の大きさから「大殿様」と呼ばれていた。追われるほうの恐怖も、半端なものではなかっただろう。足の大きさは約30センチあり、でかい足袋を1日で25足も履きつぶしたという。どれだけ人を追い回したのだろうか……と考えると、背筋が凍る思いがする。

しかも重倫の暴挙は、決してこけおどしではなかった。重倫はわずかな失敗を理由に、刀で20人以上の家来や待女たちを斬り殺したと言われている。重倫の次男にあたる10代藩主・徳川治宝の生母、おふさを斬り殺したこともあった。さらに、未遂に終わったものの、その赤子、つまり治宝まで殺そうとしたという。

謎の命令「庭に豆腐を積み上げろ!」の真意

そんな重倫の命令に逆らうことなどできるわけもなく、家臣は何でも言うことを聞いていたようだ。あるときは、「庭に豆腐を積み上げろ」と謎の指令を出されたが、それにも黙ってしたがうと、豆腐に群がるカラスたちを、重倫は鉄砲で次々と撃ち落としたという。

暇さえあれば、バイオレンス。それが、重倫という男であり、撃ち落とされる哀れなカラスの姿に、家臣たちは自分の姿を重ね合わせたに違いない。

重倫に仕えることが決まった者は、出発の前に家族と別れの盃を交わしたという。重倫の暴虐ぶりをみれば、それも当然のことだろう。

そんな暴君が、隠居を余儀なくされたのは「近隣トラブル」からだった。

江戸屋敷で、向かいにある松江藩松平出羽守の屋敷が、ある日、賑わいを見せていた。松江藩主が奥女中を連れて、高楼で夕涼みをしていたのである。しかし、その高楼が、重倫のいる紀州邸を見下ろすような位置関係だったから、大変である。

「武家の屋敷を上からのぞくとは!」

そう激怒した重倫は、すぐさま戦場に出るような陣羽織の格好に着替えて、鉄砲を撃ちまくった。逃げまどう女中たちを見ては、重倫は愉快そうに笑ったという。豆腐に群がるカラス相手に発砲するのと、完全に同じノリである。

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