「由緒などいらん」大河べらぼうで渡辺謙さん演じる田沼意次を悩ませた田沼家の系譜 出世の背景にあった"父の人脈"とは

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田沼家は幕府旗本の身分になったのでした。意行は享保18年(1733)に300石の加増を受け、相模国高座郡と大住郡に600石の知行を与えられ、領主となります。

が、意行は翌年に47歳で死去するのです。これまで見てきたように、田沼家は江戸時代に入り、紀州徳川家に仕えます。そして紀州藩主だった吉宗が8代将軍となったことにより、田沼家は幕臣(旗本)となる。

意次の父・意行は、吉宗の部屋住み時代から側近として仕え、吉宗が将軍となってからも小姓となっていますので、それが続きました。意行が吉宗に近侍する立場にあったということが、その子・意次の生涯や出世を考える上で重要だと思います。

意次は10代で将軍お抱えに

さてその問題の意次ですが、享保4年(1719)に江戸で生を受けます。意行の長男でした。

母は、紀伊藩士(田代高近)の養女でした。意次の幼名は、龍助です。

享保17年(1732)、意次は、他の者たちと共に、将軍・吉宗と対面(初お目見え)。意行の後継者として、将軍に認知されます。享保19年(1734)になると、吉宗の子で、次期将軍となる徳川家重(この時、24歳)の小姓として、意次は勤務することになりました。

父・意行が吉宗の小姓だったように、子の意次もまた同じ道(小姓としての務め)を辿ることになります。意次は元服前でまだ16歳でした。後に将軍となる家重の小姓になったことも、意次の生涯に大きな影響を与えたといえるでしょう。

意次は蔵米300俵を与えられることになります。父の意行が紀州藩主で後に将軍となる吉宗に仕えていたこと、そしてその縁で、意次が家重の小姓となったことが、後の意次の出世に大きな意味を持つことになるのです。

吉宗は紀州藩士から旗本になった者の子弟たちを、我が子・家重に近侍させたのでした。

東京千代田区 皇居外苑
東京千代田区 皇居外苑(写真:yama1221/PIXTA)

(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007)
・鈴木由紀子『開国前夜 田沼時代の輝き』(新潮社、2010)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro

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