「由緒などいらん」大河べらぼうで渡辺謙さん演じる田沼意次を悩ませた田沼家の系譜 出世の背景にあった"父の人脈"とは

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重行には子供がおり、重信と言いましたが、この重信は父祖の地である下野国田沼に移住(千本荘に住んだことから、名字を千本に変えたとされます)。

重信の子・重隆は鎌倉公方(室町幕府が関東を統治するために設置した鎌倉府の長官)・足利満兼に仕官しました(よって、重隆は鎌倉に居住)。重隆の子・光房の代に、再び田沼に帰り、名字を「田沼」に戻します。

光房には後継となる男子はなく、高瀬忠重(新田一族)の子を養子としました。この養子は重綱と称します。重綱の子は忠高ですが、その際に氏を藤原氏から源氏に変えるのです。これは新田氏が清和源氏の系統だからでしょう。

「上杉家」「武田家」「佐野氏」のち、徳川家に仕える

その後、田沼家は重高・重次・忠吉と続き、戦国時代に突入すると、上杉家・武田家・佐野氏という風に仕える主人を変えていきます。

そして吉次の代についに徳川家に仕えることになるのです。吉次は大坂夏の陣(1615年、徳川家が豊臣秀頼を滅ぼした戦い)に出陣しています。

吉次は御三家(尾張・紀伊・水戸徳川家)の1つである紀州徳川家の初代・徳川頼宣(家康の10男)に仕え、その子・吉重、次代の義房もそれに続きます。が、義房は元禄年中(1688〜1704)に病により和歌山城下を去り、浪人者になったと思われます。

この義房の子が田沼意行(1686年~1735年)であり、意次の父となる人物です。

意行は、後に8代将軍となる徳川吉宗(光貞の4男)が部屋住み(次男以下で家督を相続できない)の頃に召し出され、仕官することになります。兄たちがいたので、家督を相続できないと思われた吉宗でしたが、相次ぐ兄たちの死により、紀州藩主となります(1705年)。

意行はそれにともない、奥小姓を務めることになるのです。吉宗は7代将軍・徳川家継が早逝したことにより、次代の将軍に就任(1716年)。8代将軍・吉宗の誕生です。

当然、吉宗は江戸に入りますが、意行もまたそれに随行し、小姓を務めるのです(蔵米300俵を拝領)。

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