「この頃源内は幕府筋へ自分を売り込むことに躍起になっていたから、微禄の下級幕臣とはいえ、一応は直参の南畝がわざわざ足を運んでくれることに、なんらかのつてを求める気持ちもあったかもしれない」
交際し始めた頃は、お互いに打算もあっただろうが、作品を通じて心の交流を深めていくうちに、源内は南畝のことを気に入ったらしい。南畝は自作の狂文『水懸論』を源内に読み聞かせたところ「大いに称嘆された」と、のちに当時の感激を語っている。
そして明和4(1767)年、この『水懸論』を収めた『寝惚先生文集』を江戸で刊行すると、南畝は一気にブレイクすることになった。
源内の序文が大ヒットに弾みをつけた
『寝惚先生文集』は、狂詩26首と狂文10編から構成されている。源内が絶賛した風刺が込められた『水懸論』のほか、唐の杜甫(712~770)の『貧交行』のパロディで、自らの貧乏を嘆いた『貧鈍行』のような怒りを込めた狂詩も収載されている。次のようなものだ。
「貧すれば鈍する 世を奈何(いかん)
食うや食はずの吾が口過
君聞かずや 地獄の沙汰も金次第
かせぐに追い付く 貧乏多し」
稼いでも稼いでも、貧乏が追いついてくるよね……ヒットしたのは
「味噌の味噌臭きは上味噌に非ず。学者の学者臭きは真の学者に非ず……」
上等な味噌は味噌臭くないように、学識をひけらかす学者は真の学者ではない……としながら、こんなふうにも書いている。
「嗚呼、寝惚子(ねぼけし)か、始めてともに戯家(たわけ)を言ふべきのみ。語に曰く、馬鹿孤ならず、必ず隣有り」
本書の寝惚先生は、学者臭いところは一つもなく、ただ、ふざけてばかりいるという。また『論語』の里仁篇には「徳孤ならず、必ず隣有り」(徳のある人は決して孤立せず、必ず共感してくれる人が現れる)とあることをアレンジして南畝は「馬鹿孤ならず、必ず隣有り」、つまり、「馬鹿は孤独ではない、必ず仲間がいるものだ」というのだから、強烈なメッセージだ。源内による名文が『寝惚先生文集』の大ヒットに一役買ったといえよう。
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