【べらぼう】狂歌ブームの立役者・大田南畝は凄い人!平賀源内が推した、"江戸で大バズりのインフルエンサー"誕生秘話

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といっても、南畝は孤高に学問を究めるタイプではなく、人付き合いがうまく、誰からも好かれるような性格だったらしい。

のちに戯作者「朱楽菅江」(あけら・かんこう)として活躍する山崎景貫(かげつら)や、のちに狂歌師「唐衣橘洲」(からころも・きっしゅう)として活躍する小島源之助なども、南畝と同じく賀邸のもとに門下生として通っており、仲間として交流を深めていたようだ。

また1つのコミュニティにこだわらないのも、南畝の性質だった。20歳のときには、菊池衡岳(きくち・こうがく)、岡部四冥(おかべ・しめい)、大森崋山(おおもりかざん)らと詩集会を結成。南畝は「牛角の四友」と呼び、盛んに詩作を行っている。

平賀源内との出会いで人生が動き出す

仲間たちと互いの作品について感想を交わす環境に身を置けば、自然と切磋琢磨するというもの。他人の作品を批評するだけになってしまわないように気をつけて、自身の作品をきちんと作り続ければ、目に触れる機会が多いだけに、1人で孤独に創作するよりも、世に出る可能性は高くなると言えよう。

南畝の場合は、賀邸の門下生と交流するなかで、とりわけ平秩東作(へづつ・とうさく)との出会いが人生に大きな影響を及ぼすことになる。東作にとって、南畝は23歳も年下で、親子ほど年が離れていたが、若き才能に魅せられたらしい。実に20年以上にもわたって、二人は交際を深めている。

友はまた新たな友を呼ぶ。南畝は東作と親しい川名林助とも仲良くなり、ある日、林助のもとを訪ねた。すると、そこには『根南志具佐』(ねなしぐさ)や『風流志道軒伝』( ふうりゅうしどうけんでん)で知られる平賀源内の姿があったという。このとき、林助はたまたま源内の長屋に仮住まいしていた。南畝からすれば、江戸に名を馳せるクリエイターと、思わぬかたちで縁がつながったことになる。

タイミングも良かったようだ。南畝はこのときに狂詩や狂文の創作にはまって、時には師の賀邸から「よしなき文をつくるべからず」と苦言を呈されることもあったという。源内先生なら、この面白さをわかってくれる。そんな思いがよぎっていても、おかしくはない。

また『大田南畝』(沓掛良彦著、ミネルヴァ日本評伝選)によると、源内側にも南畝と会うメリットがあったのではないかという。

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