「成功したのは実力のおかげ」と考える人や「失敗したのは自分のせい」と考える人は、なぜ偶然の影響を無視してしまうのか

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最近のある研究で、物理学者たちが経済学者と手を組み、コンピューター・モデリングを使って仮想の社会を作り、才能が現実的な分布を示すような設定で人々を競わせた。この仮想の世界では、才能が物を言ったが、運も大切だった。

研究者たちがシミュレーションを繰り返すと、最も豊かになった人は、断じて最も才能のある人ではないことがわかった。むしろ、ほぼ毎回、平均に近い人だった。それはなぜだったのか? 

80億の人が暮らすこの世界では、ほとんどの人は才能に関しては中間層に入る。ベルカーブでいちばん面積の広い範囲だ。

さて、運を雷だと思ってほしい。雷はどこに落ちてもおかしくない。才能の中間層はなにしろ数が多いので、運という雷は、ずば抜けた才能を持つほんのひと握りの天才ではなく、何十億人もいる中間層の誰かに落ちる可能性が圧倒的に高い。

研究者たちは、次のように総括している。「本研究の結果は、私たちが『浅薄な能力主義』と呼ぶパラダイムのリスクを浮き彫りにしている……なぜならこのパラダイムは、成功要因のうちでランダム性の役割を過小評価しているからだ」。

億万長者のなかには、才能に恵まれた人もいるかもしれない。だが全員、運が良かった。そして、運は本質的に偶然の産物だ。

タレブや社会学者のダンカン・ワッツや経済学者のロバート・フランクはそれぞれ、私たちは成功を目の当たりにすると過去を振り返って理由を推測しがちであることを示した。そうした推測を行わせるのが、彼らの言う「物語の誤謬(ごびゅう)」、あるいは、より一般的には「後知恵バイアス」だ。

億万長者は才能があるに違いないという考え方も、そのような誤謬の一例と言える。

偶然の結果であることを認めてみる

成功するためには運がそれほど重要な役割を果たすのなら、それが運の良し悪しについて私たちがどう考えるかに影響を与えてしかるべきだ。

自分は能力主義の世界に暮らしていて、そこでは成功は、部分的には偶然や巡り合わせによって決まるのではなく、秀でた才能のある人々に与えられる、と信じているのなら、成功するたびにすべて自分の手柄にし、失敗するたびに自分を責めるのが理に適(かな)っている。

だが、見たところランダム性や巡り合わせと思えるものが、人生における変動の相当な割合を引き起こしていることを受け容れたら(実際、引き起こしているのだが)、人生の展望が変わるだろう。

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