今年で70歳の「明石家さんま」 《トーク番組》を中心に活躍する背景 "60歳での引退撤回"後もレギュラー番組多数
「ピンはいらん」「うちは漫才やから」と所属事務所の吉本興業から諭され、松之助から「シャレで漫才するのもおもろい」との助言もあり、1976年~1977年は兄弟子の明石家小禄(現・五所の家小禄)と漫才コンビでも活動していたさんま。その短い間に、ターニングポイントが訪れる。
1976年10月から始まる新番組『爆笑三段跳び!』(読売テレビ)の前説を任された折、司会を担当する落語家・笑福亭仁鶴がなかなか到着しない。当時人気絶頂の仁鶴は多忙を極め、さんまらが前説を始めて1時間以上経っても姿を見せなかった。いよいよネタが尽きると、さんまは高校時代に部室でやっていた形態模写を披露し始める。
当時の読売巨人軍の1番から打順を追ってものまねし、最後にエースの小林繁をやって見せると思った以上にウケた。これを機にさんまはテレビ出演が増え始め、仁鶴のようにピンで活動する意思をさらに強めた。
「漫才ブームのときはつらかった」
その後、桂三枝(現・桂文枝)が司会を務める人気番組『ヤングおー!おー!』(毎日放送)のメンバーに抜擢され、1979年に『明石家さんまのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)がスタートするなど、徐々に全国区のスターへと階段を上っていく。そんなさんまの前に立ちはだかったのが、『THE MANZAI』(フジテレビ系)に代表される1980年代初頭の漫才ブームだった。
「漫才ブームのときは一番、もうピンは本当につらかったね。ふたりでワーッとやられるのとピンでしゃべるのとでは(筆者注:違う)。そら漫才ブームやったし。(中略)とにかく漫才で売れてるメンバーの背中が見える位置でおろうと。マラソンで例えるとね。『こいつらの背中見えてるな』と思ってると、きっと大丈夫や何年後かは、という気持ちはあった」(前述の『ワレワレハワラワレタイ』2014年10月撮影時の明石家さんまの発言より)
シュッとした容姿でスポーツも得意だったさんまは、アイドルにも引けを取らない人気ぶりを見せていた。その一方、あえて「歌が下手」だという弱みを見せることで、同性からの支持も獲得していく。
『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系)の「タケちゃんマン」では、病欠の高田純次の代わりに悪役のブラックデビルを好演し、レギュラーの座をつかむ。1984年から『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の金曜レギュラーとなり、1986年にテレビドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)で主演を務めるなど、いよいよさんまは時代の顔となっていく。

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