今年で70歳の「明石家さんま」 《トーク番組》を中心に活躍する背景 "60歳での引退撤回"後もレギュラー番組多数
さんまは、「17歳が笑いの頂点」だったとよく語っている。高校時代、サッカー部の練習に明け暮れ、部室で野球選手の形態模写をやって仲間たちを笑わせ、文化祭で2時間の独演会を開催するなど、絵に描いたような学校の人気者だった。
そんな中、英語の授業中に先生から「お前、吉本行け」と言われた。これがお笑いの世界に入るきっかけになった。
師匠・笑福亭松之助との出会い
目指すべき道が決まったさんまは、まず好きな落語を観ようと吉本興業の劇場「なんば花月」に足しげく通うようになる。さまざまな落語家を観る中で、生意気ざかりの少年を唯一笑わせたのが後の師匠・笑福亭松之助だ。

松之助は、「将来性がない」と判断するとすぐに弟子を辞めさせることで知られる。しかし、さんまだけはかわいがられた。松之助から「なんでわしを選んだんや?」と聞かれたさんまが「センスありますさかい」と答えたエピソードは有名だ。普通なら怒られる場面だが、松之助は高校生のさんまに「センスあるか、わし?」と返したという。最初から共鳴するものがあったのだろう。
1974年、高校を卒業する間際に松之助に弟子入り。実家が水産加工業だったことから、“笑福亭さんま”と命名された。ところが、さんまは半年足らずで修業を放り出し、当時の交際相手と上京。若さゆえの行動だったが、程なく生活は行き詰ってしまう。
半年後、大阪へと戻り松之助のもとを訪ねると、破門させられるどころか明るく励ましてくれた。さらには、さんまがテレビタレント向きであると見込み、上方落語界で肩身の狭い思いをしないようにと自身の名字「明石」からとった“明石家”という亭号を授ける。明石家さんまの誕生だ。
テレビデビューは、1976年1月放送の『11PM』(よみうりテレビ/日本テレビ系)。この年に20歳を迎える上方落語家を集めた企画で、松之助はさんまに着物ではなく真っ赤なスーツを着て行けとアドバイスする。その衣装でしゃべりにしゃべったさんまは、番組で大いに目立った。司会者で作家の藤本義一からは生放送中に説教を受けたが、漫才師の横山やすしには気に入られた。
吉本興業創業100周年事業として制作されたドキュメンタリー『ワレワレハワラワレタイ ウケたら、うれしい。それだけや。』(2017年10月より、芸人数組分のインタビューを1本分の映画として順次公開)の中で、松之助はインタビュアーの木村祐一に「まぁしゃべりよったね。真っ赤で、ほかはちゃんと着込んで皆着物ですわ。(中略)家でこうやって(筆者注:拍手して)『やれ、やれー!やれ、やれーい!もっと行けー!!』言うてテレビにやっとったんですよ」(2014年12月撮影時)と満面の笑みで語っている。
こうした松之助のスタンスは、さんまの芸風にも通じていると思えてならない。
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