今年で70歳の「明石家さんま」 《トーク番組》を中心に活躍する背景 "60歳での引退撤回"後もレギュラー番組多数

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そんな中、1985年に『さんまのまんま』(関西テレビ/フジテレビ系)、1988年に『あっぱれさんま大先生』(同系)、1992年に『さんまのからくりTV』(TBS系)、1994年に『恋のから騒ぎ』(日本テレビ系)がスタート。現在の「司会者・明石家さんまによるトーク中心の番組」のイメージは、この時期に確立されたと言っていいだろう。

明石家さんま
「さんまのまんま」(写真:関西テレビ公式サイトより引用)

今振り返ると、さんまはあらゆるものを“テレビ的な表現”として定着させてきたことに気づく。

例えば、先に触れた野球選手の形態模写。芸能界入りが遅かったタモリは、九州でボウリング場の支配人を務めていた頃に、テレビで若手時代のさんまの芸を見てイグアナの形態模写を始めたという。

「たしか『11PM』やと思う、番組内で僕は兄弟子と二人で形態模写をやらされたんですよ、それをテレビでタモリさんは見てらっしゃったらしいんです。ほいで『イグアナできるな』ってなって、タモリさんはイグアナの真似をしたら九州でウケたという」<『SWITCH Vol.41 No.1』(スイッチ・パブリッシング)明石家さんまの発言より>

そのタモリに「なんだかわからないけど面白い」と言われ、時代の寵児となったのがとんねるずだ。彼らもまた、帝京高校の部室や合宿先で各々がものまねを披露し、仲間たちを笑わせていた。

マニアックなものまねで知られる関根勤などを含め、彼らは漏れなくテレビに魅了された者たちだった。そして、そのスピリットは今も人気を博す『ザ・細かすぎて伝わらないモノマネ』(フジテレビ系)へと受け継がれているのが興味深い。

テレビで「関西標準語」を作ってきた

もうひとつ特筆すべき点が、テレビで“関西標準語”を作ってきたことだ。きっかけとなったのは、さんまが漫才ブームの流れで始まった『笑ってる場合ですよ!』(同系。1980年~1982年終了)の演芸コーナーでネタを披露したときの違和感にあった。

「『それがパッチ(筆者注:股引の関西弁)でしたんや』でシーンっと。大阪ではもう試してウケてるネタやのに、シーンっとして『え?』と思って帰って。ほんならディレクターがきて『パッチって何?』って言われて、『あっ、そうか!これがわかれへんかったんか』って言うて」(前述の『ワレワレハワラワレタイ』本人の発言より)

これを機にさんまは、「ほかす(捨てる)」といった伝わりにくい関西弁を削り、実生活では使わないが語感の面白い「でんがな」「まんがな」を強調して全国ネットのテレビで伝わる関西弁を模索していく。そのことで、後続の関西芸人が東京で活動しやすくなったのは間違いないだろう。

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