カリスマ現代文講師が語る「読める人」と「読めない人」の二極化に隠された危機。大学入試の合否を分ける「シン読解力」とは?
シン読解力は、今後の教育の原則になり、大学入試の中にもこれを踏襲したようなスキルテストが生まれてくる可能性が高いという気がしています。
「シン読解力」と個性は矛盾しない
“自分らしさ”や個性が大事だと言われる時代に、文章を書いてあるとおり、一義的に読むことを求めるのは矛盾しているのではと悩む親御さんもいるでしょう。
教師や親など子どもの教育に携わる人間が、誠実に目の前の子どもに向き合ったとき、誰もが経験する問題意識だと思います。
「角を矯(た)めて牛を殺す」ということわざがあります。小さな欠点を直そうとして、かえって全体をダメにしてしまうという意味です。個性を活かそうとするあまりに、マス教育自体を否定してしまうという可能性もある。
その国の文化や共同体の中で、先行文化をきちんと学ぶ、というより、まずは“真似ぶ”ことから始まると思うんです。“学ぶ”の語源は“真似ぶ”だと言われています。
共役可能な言語の使い手として成長していくための基礎教育ですから、一義的に読めて、一義的に伝えるための「シン読解力」を身につけることで、個性がなくなるわけではないはずです。
あらゆる個性的な歴史の立役者たちはみんなきちんと教育を受けた人たちですし、小学校しか卒業しないで首相になった田中角栄だって、学校以外の村や地域の共同体で学んでいるはずです。
学校という場でなくても、みんな何らかの共同体の中で、ルールや文化や言語、原則的な考え方というものを学び、そこから自分らしさを発揮しているのです。
本当の個性というのは、むしろ押し込められた後にそこを打ち破って出てくるものだと、僕は思います。爆薬も柔らかいもので包むと巨大な爆発力は出ません。しかし、鉄で固めるとすさまじい力で炸裂する。文化にはそういう側面がある気がするんですよ。
だからこそ、シン読解力のような基礎力をしっかり学び、その上での個性ではないでしょうか。(つづく)
(構成:岩辺みどり)
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