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「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」50歳目前で半身不随、仕事も妻も失った元歯科医の実話≪家族は知らない真夜中の老人ホーム≫

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彼は車椅子から立ちあがるとき、「がんばれツルマル、がんばれイノウエヒデオ」、と言うことがあった。鶴丸とは鹿児島県で1、2位の進学高校の名前である。

しだいに彼とは気心が知れるようになっていった。

危険な遊び

デイサービスの家に行くには、いったん道路に出て坂道を登らなければならない。すぐ隣の家なので車椅子で行くのだが、急な坂道は恐い。車椅子から下り坂を見ることは恐い。車椅子を押しているほうも恐いが、乗っているほうは介助者への信頼がないかぎりとても安心などしておれないはずである。初めてのとき、わたしは車椅子を下り方向に向けてしまった。

「おおっ、おおっ」

井上さんは声をあげ、車椅子にしがみついた。

5、60メートルの急な下り坂は、ハンドルを握っているわたしも不安になるほどだった。うっかり手を離したらと思うと、車椅子が井上さんを乗せたままころがり落ちていくさまが見えてしまうのだった。

が、わたしは冗談を言った。

「ころがってみるや」

わたしはハンドルを握りなおしてから言った。

「よせ、よせよ」

「たまにはひとりでドライブをしてみいやん」

『家族は知らない真夜中の老人ホームーーやりきれなさの現場から』(祥伝社)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

「よせ、よせよ」

井上さんは尻込みするように車椅子にしがみついた。

「冗談、ごめん、ごめん」

「笑いごとじゃないぞ」

井上さんは大きな声で言った。

でも本当は怒ってはいなかった。

わたしはときどきこの遊びをやった。

井上さんに興奮してほしかった。怒ってほしかった。スリルや怒りで生きていることを感じてほしかった。

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