「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」50歳目前で半身不随、仕事も妻も失った元歯科医の実話≪家族は知らない真夜中の老人ホーム≫

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ここで力を抜いたらふたりもろとも転倒してしまう。

「こらっ、しっかいせんや」

さらによろめき、わたしにのしかかってくる彼の体重を押し戻したとき腰に鋭い痛みが走った。

「右手ッ、手摺りを掴まえんや」

力を振りしぼり彼の重さに耐える。

「しっかいせんや」

ふたりでよろめき、やっとの思いで彼の体重を麻痺していない右足に移した。そして彼のお尻を便座のうえに降ろした。便座が割れたと思った。が、固い音をたてただけだった。そして井上さんは下半身裸、ズボンは足首にひっかかっているだけだった。

「動かないでと言ったがな」

鋭い痛みのある腰を伸ばしながら、わたしは怒った。

彼の介助は充分注意していたが、ついに腰をやられてしまった。

やっかいそうな人だなと思っていた

黙ってトイレの壁を見ていた井上さんは小さな声で「ありがとう」と言った。

彼の気持ちが近づいてきたのが分かった。

彼を初めて見たのは、9人の入居者がテーブルにつき夕食の配膳を待っているときだった。いわゆるお年寄りのなかで、まだ働き盛りではと思われる男性がおり、一番奥の席から、わたしを見ていた。それが元歯科医の井上秀夫さんだった。

悲しいのか、怒っているのか、疲れたのか分からないような顔をしていた。他の人たちがわたしの挨拶になんの反応も示さなかったのに、彼だけが意味不明な顔をしてわたしを見ていた。やっかいそうな人だなと思った。

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