「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」50歳目前で半身不随、仕事も妻も失った元歯科医の実話≪家族は知らない真夜中の老人ホーム≫
井上さんはわたしよりかなり若く、50歳くらいではと思われた。
奥さんの実家のある熊本市で歯科医院を開業していたが、数年前の脳梗塞で左半身麻痺となり車椅子の生活だった。奥さんとは離婚し、実家のある鹿児島市に帰ってきていたのだった。
「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」
彼が泣いていたことがあった。
「なんでこうなったんだろう。くやしいよ」
あるとき、井上さんが車椅子のうえで泣いていた。
「つらいよね」
「つらいよ、苦しいよ。あなたがうらやましいよ」
「……」
「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」
車椅子のうしろにいたので顔は見えなかったが、彼が涙を流しているのが分かった。わたしは車椅子のハンドルを握りなおし、「デイの家に行こうか」と言った。
歯学部での前途洋々たる学生時代。開業し社会的な地位も、豊かな家庭も手に入れた幸せな日々。歯科医院ではスタッフにも患者さんにも慕われていた。平穏で豊かで幸せな日々だった。生きているかぎりそれらが続くはずであった。なんの疑いもなくそう思っていた。が、井上さんは50歳になる前にそのすべてを失ったのだった。
夜勤者のわたしにはなんの慰めの言葉も見つけられなかった。
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