「おれには、もう、何もないのよ、何もないのよ」50歳目前で半身不随、仕事も妻も失った元歯科医の実話≪家族は知らない真夜中の老人ホーム≫
倒れ込んだお尻が剝き出しになっている。便器の水のなかには大きな固まりが沈んでいる。自分で後始末をしようとしたのだ。
「なんで、また自分でやるの。動かないでと言ったがな」
便座の蓋を降ろして水洗の水を流した。
「そげん言わんで、早く起こしてよ」
体重75キロ。
麻痺した左半身をしたに横たわっている。
トイレが狭くて足を踏み込むことができない。
引っぱり出すしかない。
手摺りに伸ばしていた井上さんの右手を掴み、それを引いた。
75キロの重さがのしかかる
「イテテテテッ」
「がまんしゃん」
「イテ、イテッ」
ズボンが脱げそうになり、大の男の下半身がさらに剝き出しになった。上半身を引っぱり出し、背中から抱きかかえた。恐ろしく重い。
「よかや、自分で立ってよ、自分の足で立つんだぞ」と声をかけたが、彼の左足はへなへなである。ふたりでよろめいた。75キロの重さがそのままわたしにのしかかってくる。
ナースコールが繰り返し鳴る。寝たきりの宮本文江さんだ。聞き流す。騒々しさに江口シズさんが起き出してこないか気になる。前頭側頭型認知症で、用を足したあと便器のなかの水で手を洗う人である。やめさせようとすると杖を振りまわして怒る。
イラッとする。
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