二子玉川の隣なのに「ほぼ無名」元"花街"の実態 橋を渡って東京から遊び人が訪れた「二子新地」

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緑も多く、休日になると、ピクニックに訪れる家族連れや、グラウンドを使うスポーツのグループでにぎわう。地元民だけでなく、電車を乗り継いでやってくる人も多い。

ここでゴルフの素振りをしていた男性がこんなことを教えてくれた。

「新地通いって言葉を知ってるかい?」

ライターとして恥ずかしい限りだが、初めて聞く言葉だった。

「新地って言葉がついている土地はね、新しく開発したという意味のほかに、”大人の遊び場”っていう意味もあるんだよ。

二子新地も昔はそういう地域だったんだね。こっち(神奈川県)とあっち(東京都)を結ぶ二子橋の建設で生きの良い若者が集まってね、そういう人たちにここらへんの遊び場は大人気だったんだ」

たしかに、「新地」を辞書で調べると、以下のように説明されている。

①新しく住居地として開けた土地。新開地。

②《多く新開地にできたことから》遊里。「──通い」

③新しく手に入れた領地。新知。

※いずれも「大辞泉」(小学館)より

さらに二子新地の歴史を紐解くと…

『花街の引力 東京の三業地、赤線跡を歩く』(三浦展著)を開くと、「二子玉川、二子新地」の項目に、以下のような説明がある。

〈川崎市高津区二子にも三業地(料理屋、待合茶屋、置屋の3つの業種が集まっている地域の俗称※筆者注)があった。三業地として成立したのは1924年。二子橋の建設中に職人たちがお金を落とすようになったのがきっかけで、橋の完成後は東京から客が来るようになったからである。二子にある旅館の「二子亀屋」が最初に芸者の置場「新亀屋」を二子神社裏につくった。続いて「千代鶴」という置屋ができ、三業地として発展していった。〉
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