であれば、『べらぼう』には「似た状況を全くなくせていないのが私たちの現実」に対する森下佳子の思いが結晶してほしい。
花魁・女郎の言葉が、追いやられている令和の人々の叫びに聞こえてくるか。そして、吉原の女性を救うために駆け回る蔦重が、そんな令和の人々に「べらぼう」な解放感を与えることができるか――。
吉原を大河ドラマで描く本質的な意味
江戸時代中期と令和をつなぐこと、吉原を単に吉原ではなく、令和にも通じる「人や社会のどうしようもなさ」の吹きだまりとして描くこと。それこそが『べらぼう』に期待する本質的な新しさだと思うのだ。そして、それでこそ、吉原を描く意味と価値が横溢する。
というわけで、「朝ドラ党」として感じた『べらぼう』の魅力、そして期待を述べてみたが、どういう結果に転ぶかは、正直、まだわからない。
万が一の場合、小芝風花にはNHK大阪制作朝ドラのヒロインになっていただき、「べらぼうめ!」ではなく「アホちゃうか!」とたんかを切って、うっぷんを晴らしてほしい。
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