だが、もっとも興味を惹いたのは、吉原を舞台とするという「英断」である。この「英断」が世の中的に成功するのか失敗するのか、はたまた炎上していくのか、今のところわからない。
すでに初回、着物をはぎ取られた全裸の女郎4人の遺体が映し出されていたことについて、SNS上で賛否の意見が沸騰した(註:インティマシー・コーディネーターを採用しているとのこと)。
しかし「全裸の女性を映すこと」、ひいては「吉原を舞台とすること」の是非以上に、私が興味を抱くのは、それらを通じて、この大河が何をメッセージするかの一点に尽きる。
そのメッセージの質こそが、『べらぼう』を本質的に新しい大河にするかどうかを決定すると考えるからだ。
『べらぼう』の脚本家が語っていること
『NHK大河ドラマ・ガイド べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 前編』(NHK出版)の出演者インタビューから、いくつか言葉を拾う。まずは小芝風花。
――初めて台本を読んだとき、男性にとっては華やかな夢の世界である吉原に暮らす女郎が、本心を隠しながら生きる描写に涙が出そうになりました。
続いて大奥の筆頭老女「高岳」役・冨永愛。
――大河ドラマで吉原を掘り下げるってすごいことですよね。きれいな女性が大勢いて表向きは華やかだけれど、身売りされた女性たちが男性に体を売っている世界。そこでの人間模様を描くわけですから。
そして脚本家の森下佳子自身の言葉。
――蔦重が育ち愛着も持っていただろう吉原は、今の価値観からするとさまざまな意見が出る場所です。でも、その『非』について語り尽くされた今も、似た状況を全くなくせていないのが私たちの現実。(中略)見守ることで見えてくる人や社会のどうしようもなさ。その中で、皆何を考えどう生きたか。そんな事も少し伝わればいいと思っています。
そう、私が今回期待するのは「吉原を舞台とした攻めた大河」などの表面的なものではなく、森下佳子の言う「似た状況を全くなくせていないのが私たちの現実」につながる本質的に新しい大河である。言い換えると、令和の「私たちの現実」につながる「人や社会のどうしようもなさ」の描出だ。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら