明治の「日本の工業化」こんなにも凄かった理由 地理と日本史を同時に学ぶことで見える視点

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そこでA国の企業は、隣国のB国で製品を作って、それをA国に売ります。B国はまだまだ経済発展していないので、賃金は安く、生産のためにかかるコストも安く済むわけです。B国の人にとってみれば、A国の技術を継承することもできますし、働き口もできますから、プラスの効果があります。このようにしてB国が経済発展していくことを、輸出指向型工業化と呼ぶのです。

1980年代以降のアジアの国々の経済発展は、この輸出指向型工業化であるとされています。例えば中国では、1979年に経済特区が作られて、外国企業を誘致することで経済発展を遂げました。東南アジアも、同じような流れが見られます。

ここまでの話を聞いて気づいた読者も多いと思うのですが、これは明治維新以降の日本の工業化の流れと合致する部分が多々あります。

明治の日本での工業化の流れ

明治維新以降の工業化の背景にあるのは、外国人を誘致して、そのノウハウを譲り受け、安価で豊富な労働力によって安い商品を作り、海外に販売していったことが挙げられます。

明治政府は多くの工場を設置し、それを手本として民間産業の発達を促しました。中でも、世界遺産となっている群馬県の富岡製糸場には、明治5年の時点でフランスから輸入した最新式の繰糸機を設置し、フランス人の技術者を招いて、教えも乞いました。この工場で製糸訓練を受けた日本の女工たちは、全国の製糸工場で次の世代の技術指導に当たったといわれています。また、軽工業分野以外でも、多くの分野で外国人技術者を高待遇で招き、そのノウハウを譲り受けていたといわれています。

そして受け継いだノウハウをもとに、日本人の労働者たちを多く雇って工業を発展させました。当時はまだ労働者たちの賃金も高くなかったため、安価な労働力がたくさん確保できたのです。当然その分商品の値段も安く抑えられますから、ヨーロッパの商品よりも安い値段で輸出することができたのです。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、日本は繊維産業で世界市場に進出し始めました。この時期、主にアジア市場向けにほかの国より安く繊維製品を輸出し、繊維産業が日本の主要輸出品となりました。値段の面で勝てなかった外国からは「ソーシャルダンピング」と批判されたといわれている……というのは日本史の教科書に載っていることですね。

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