ヤマザキマリ「飢えは多くのことを教える」の真実 実体験で腑に落ちたラテン語の格言が意味すること
すべての道はローマに通ず、ですね。びっくりしましたけど、結局私が日本に戻った後、手紙を通じてこの人と母親が意気投合し、私のイタリア留学が勝手に決まってしまったんです。
ラテン語:ただ多くのケースでは、そんな大きな決断は、たとえ勧める人がいたとしても、実際に行動に移すということはあまりないと思うんですね。なぜヤマザキさんは実際に行動に移したのか。決断したのか。
ヤマザキ:4歳の時の一人旅も私の意思ではなく、母に行ってこいと言われて背中を押されました。でも私はもともと、そういう成り行きに争わない性格だったんで、よほど嫌なことじゃない限りは受け入れていました。
その頃の私は、将来は画家になりたいと進路指導で先生に相談したのですが「絵なんて生産性がないようなことを将来の目的にするな」と言われ、かなり意気消沈してしまいました。先生はそう言うけれど、うちの母親は音楽家で表現を生業にしていたので、表現という仕事が経済生産性がないからやらなくていい、という言い分には納得がいきませんでした。
母はそんな私の様子を見ていたんですね。自分が行けなくなったから代わりに行ってくれ、チケット代がもったいないからと、パリ往復のチケットを渡されました。
うちの母はシングルマザーでしたが、大胆で、直観力があり、石橋も叩かずに渡ってしまうような性格の人でした。何に対しても「やってみるまでわかんないじゃないのよ。やってみて失敗したらやり直せばいいのよ」という考えの人でした。
それはたぶん、戦争という不条理と理不尽を経験してきたからだと思うんです。そういう母親に育てられたから、私も予定調和を期待もせず信じることもせず、かつ石橋を叩きすぎることはあまり良くないと思う人間になってしまいました。
待っていても運は来ない
というわけで、とりあえず行ってみてダメだったらまた戻ってくればいい。そんな感覚で14歳の一人旅も、17歳のイタリア行きも決断したように思います。
その勇敢さや大胆さが運を自分にもたらしたかどうかは別としても、少なくとも母の提案を実践してみようという決断があったからこそ、今の自分があるのは確かです。
イタリアの美術学校に入って貧困生活を強いられながらも様々な人と出会って多くの経験をしたことも、同棲していた彼氏との間に子どもが生まれたことも、専攻していた油絵をいったん諦めて漫画の道に進むことにしたのも、その後14歳の一人旅で出会ったおじいさんの孫と結婚することになったのも、『テルマエ・ロマエ』という漫画を描いたことも、すべて旅に出る決断がもたらした結果です。