インドの沙漠で痛感した日本人のヤバい「劣化」 電気まみれの生活で日本人が失ったものとは

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そこでは4〜5時間ものあいだ、動物の息づかいや臭いと、彼らが駆け抜ける地形との、微細で複雑な対話が続けられる。

それでも、ダメな時はダメだ。動物たちの才覚に、完敗することも多い。それは、敵陣のゴールまで戦略的にボールを運ぼうとするサッカーのような集団プレーにとてもよく似ていて、緊張と弛緩の波が目まぐるしく変化する、究極のゲームなのである。

「Game」という英語が、狩猟の意味を帯び、かつギャンブルの語源となっているのも、全くもって納得する。動物の「気」を読み、地形と風の流れを読み、微細な光の変化を読む。それは人間と動物の織りなす、生命の遊戯だ。

ここでの「ゲーム」に勝つには課金でなく努力がマスト

ボードゲームもトランプもスマホもSwitchもNetflixもない彼らの世界では、彼らを取り巻く環境と、そこに息づく生命たちとのバトルという名の対話が、最高の遊びとなっている。

そのゲームに参加し勝利するためには、課金をしてアイテムを揃えたり、敵を倒してレベルアップするのとはケタ違いの努力――自身の身体を鍛え上げ、動物と対話をするためのアンテナとセンスを磨き、全ての感覚器官の感度を高め、危険極まる世界に飛び込んでいくためのゆるぎない自信を構築していく、絶え間ない努力と実践知の蓄積――が必要とされるのだ。

僕らは、夜にものを見る能力をずいぶんと失ってしまったが、彼らの本領発揮はまさに夜。

目が良くなくては、世界と対話することができないのだ。

風を読み、匂いを感じ、微かな物音に反応する、五感をフルに活用した感覚器官の総合的な能力も同様だ。ある意味、「退化」した僕の身体と感覚器官では、もはやこのゲームに参加することはできない。それはとても悲しいことだった。

一方で僕は、月明かりの中でライフルを構える彼らの隆々とした上腕二頭筋の凹凸がうっすらと浮かび上がる時、人間の鍛え抜かれた身体の美しさに、惚れ惚れとしてしまうのだ。

そして冷え切った沙漠を機敏に走り回り、時に静止してじっとこちらの様子を伺う動物たちの姿に、ほんのりと光るシカやウサギたちの体毛の美しさに、僕の心臓は飛び出さんばかりに魅了されてしまう。

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