「脳に問題がある人は働けず、貧困に陥る」の是非 貧困は全世代層に「普遍的なリスク」になった

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脳に不自由がある者は、就労継続が困難となり、容易に失職し、預貯金や私的公的な支援がなければ貧(ひん)に陥り、抜け出せない困(こん)に陥るのも当然なのだ。

もちろん、これまで貧困の要因については、成育環境によって教育資源を得られなかったこと、家族資源や地域資源がないことなど、複雑な要因があることが語られてきた。僕自身もかつては世代間を連鎖する貧困問題について主に書き続けてきたが、そこにばかり注視しすぎた反省もある。

自身がこの不自由な脳になって思うのは、たとえ教育資源があろうと、どれほどキャリア形成をしようと、ほんの少し脳に不自由を抱えるだけで、そこに就労継続の困難=大きな貧困のリスクが立ち上がるということだ。

なぜ差別的に感じられるのか?

改めて問いたい。

前述の目や足の不自由な者には差別的に感じなかった表現がなぜ「脳が不自由」の表現では差別的に感じられるのか? それは、脳に不自由があること、精神障害に分類される病や疾患をもつことに対する忌避感や差別感情だけが、他の障害よりも根深く現代に残っているからではないか?

こんな問いかけをするのは、自身がこの不自由な脳となり、働くことに困難を感じる中で、必死にあがいて働いたとしても、その「あがき」が健常者にはほとんど見えないという大問題をようやく知るに至ったからだ。

かつて僕が取材対象の「どんな仕事ができるかって……」という嘆きをスルーしてどれほどの困難を抱えているのかを掘り下げなかったように、些細に見える不自由が就労上どれほどの不自由にまで波及するかを想起するのは、実際その身になってみなければなかなか理解が及ばない。

普通に課題を成し遂げているように見えて、その水面下でどれほど努力しているかは、殊に頭脳労働においてはまったく不可視だ。だが、自身がこの脳になることで、脳にまつわる様々な障害の当事者が、どれほどの見えない努力で日常のタスクや実務をこなしているのかが、痛いほどわかるようになった。けれどその自助努力は、他者からは決して見えないのだ。

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