中将はそっとその場を立ち去って、京から帰りの車を引いてくるように使者を走らせる。先ほどの宿直人に、
「折悪(おりあ)しく宮のお留守に伺ってしまったが、かえってうれしいことに、ずっと思っていたこともかなえられた気がするよ。こうして伺ったことを姫君たちに伝えてくれ。ひどく濡れてしまった恨み言もお耳に入れたいものだ」と言うので、宿直人はそのように取り次いだ。姫君たちは、かように姿まで見られてしまったとは思いも寄らず、気を許して弾いていた琴の音を聴かれてしまったのではないかとたいそう恥ずかしく思う。不思議なほどにかぐわしい匂いのする風が吹いていたのに、まさか中将が来訪しているとは思いもしなかったので、気づかなかったとはうかつなことだった、と動揺してただ恥ずかしがっている。伝言を取り次ぐ者もまったくもの馴れない人のようなので、何ごとも時と場合による、と中将は思い、まだ霧のためによく見えないので、先ほど巻き上げられていた御簾(みす)の前に歩み出て、そこにひざまずく。いかにも田舎びた若い女房たちは応対する言葉も思いつかず、敷物などを差し出すのもぎこちない様子である。
世間によくある色めいたこととは違う
「この御簾の前では決まり悪い思いです。その場限りの軽い気持ちでしたら、こうしてわざわざ訪れるのも難しいくらいの険しい山路ですのに、このようなお扱いとは……。こうして露に濡れながら何度も通いましたら、いくらなんでも私の気持ちもわかっていただけるだろうと頼もしく思います」とたいそう生真面目に言う。
若い女房たちが、如才なく対応できそうもなく、消え入りたいほど恥ずかしがっているのも見ていられず、奥のほうで寝ている年輩の女房を起こしにいかせるが、その手間取っているあいだももったいぶっているようなのが心苦しく、大君(おおいぎみ)は、
「何ごともよくわかっておりませんのに、知ったふうな顔で何を申していいのやら……」とじつに奥ゆかしい気品のある声で遠慮がちにかすかにつぶやく。
「じつはよくわかっていながら、人の嘆きに知らん顔をするのもこの世の常だと承知しておりますが、あなたまでがあまりにもそらぞらしいことをおっしゃるのは残念ですね。まれなほど何ごとも悟りきっていらっしゃる宮とごいっしょに暮らしているあなたの心の内は、さぞやすっきりと何もかもお見通しのことと思います。やはりこうして隠しきれない私の心が深いか浅いかもわかっていただけるのなら、来た甲斐もあるというものです。世間によくある色めいたこととは違うとわかっていただきたいのです。そのような色恋沙汰は、あえて勧める人がいたとしても、私がその気になるつもりはないと強く思っております。そうした噂も自然とお耳になさっていることでしょう。所在ないままひとりさみしく日を送っている私の世間話でも聞いていただいたり、またこうして世間を離れてもの思いに耽(ふけ)っていらっしゃるお気持ちを紛らわすために、そちらからお声を掛けていただけるほど親しくおつきあいできましたら、どんなにうれしいことでしょうか」などと言葉数多く話すので、大君はただ恥ずかしく、答えに窮し、先ほど起こした老女房が出てきたので対応をまかせてしまう。
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