上杉謙信を越後に縛り付けた「肩書」へのこだわり 「義の武将」は作られたイメージにすぎない

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上杉謙信の悲願は、この関東管領になり、関東を平定しかつての室町幕府の秩序を取り戻すことだったとも言われています。それゆえに、そうした秩序を無視するような信長と違う振る舞いをしたというわけです。詳しくこの点を見ていきたいと思います。

最大のライバルは「武田信玄」ではなく「北条氏」

上杉謙信こと長尾景虎は、上杉氏の養子となり、家督を継ぐと、そのまま関東管領に就任しました。どうも謙信は室町幕府が示した秩序を非常に信頼していた節があります。室町幕府が作る秩序、つまり官職や肩書に、ある種の信頼感を抱いていたのではないでしょうか。

将軍という肩書があれば将軍として振る舞える。この事実を謙信は重視し、それゆえ、関東管領という役職が本来的に持つ関東平定というものが彼の悲願となったのです。

こうして、謙信は越後から関東にやってきては関東地方の平定のために、相模に本拠を置く北条氏と戦いました。謙信の生涯の悲願が、関東平定にあるならば、関東管領としての上杉謙信の最大のライバルは、実は武田信玄ではなく、北条氏だということになるでしょう。

そのためにわざわざ謙信は軍を率いて、三国峠を越え、関東地方にやってきたのです。つまり、謙信は武田と北条の両者と同時に戦う、二正面作戦を行っていたと言えます。

関東管領としての権限を行使することで、謙信は北条攻めの際、北関東の武士たちを中心に兵を募ることができました。第4回の川中島の戦いの前年、謙信は関東へ遠征していますが、その際には関東の武将が集結し10万もの大軍になったと言われています。この軍勢でもって、北条氏の小田原城を取り囲みました。

とはいえ、関東の武将たちは完全に関東管領に恭順していたわけではありません。そのため、さすがの戦上手の謙信であっても小田原城をついに落とすことはありませんでした。

関東の武将たちも、関東管領の謙信が関東平定のために遠征してきたときは、謙信の側につき、また謙信が帰国すると、北条氏によい顔をするというような状態です。なかには佐野昌綱のように5回にわたって、裏切りと寝返りを繰り返した武将もいるほどでした。

結局、謙信は関東の平定もできなければ、北条氏というかつての秩序にはなかった存在を討つこともできなかったのです。その後、北条氏康とは和睦に至っていますから、謙信は関東平定の夢半ばで、現実路線を取らざるを得なくなったというわけです。

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