上杉謙信を越後に縛り付けた「肩書」へのこだわり 「義の武将」は作られたイメージにすぎない
もうひとつは、戦国大名にとって最も重要なのは、自分の国を守るということ。武田信玄が甲斐を、今川義元が駿河を終生、本拠地として動かなかったように、謙信も居城である春日山城のある越後を動きませんでした。
越後は現在の新潟県のように長細く、三日月型をしています。春日山城は現在の上越市、人の顔に例えるなら、顎の先に当たるような部分です。
そのため、越後全体からすると西側すぎると言えます。そうであれば、居城を現在の新潟市付近まで移したほうが、越後全体を統治しやすかったのではないかと思うのですが、謙信は生涯、春日山城を動きませんでした。
信長のような「侵略マシーン」は、むしろ例外
春日山城は直江津港に近いので、日本海貿易から得られる莫大な利益を確実に押さえるために、同地を本拠地としたと考えることもできるかもしれません。しかし、新潟市にも港がありますから、そちらに城を移し、港を整備すれば日本海交易を続けることもできたでしょう。それをしていないところを見ると、やはり初期の謙信は、政治が得意ではなかったのではないかと思えてきます。
ただし、謙信のライバル・武田信玄も海を欲し、港を手に入れたいという欲望があったことも忘れてはいけません。金の卵を産む鶏である直江津を、信玄も喉から手が出るほど欲しかった。だから10年にもわたって北信濃へと侵攻を繰り返したのです。謙信からすれば、信玄の攻勢がある以上、うかつには動けなかったという向きもあるかもしれません。
いずれにせよ、信長のように次々に他国を攻めて領地を拡大した侵略マシーンのような戦国大名は、むしろ例外です。謙信にとっても最重要な課題は越後を守ることであり、それをきちんと果たしました。とはいえ、そのことをもって「義の武将」というならば、戦国大名の大半が「義の武将」になってしまいます。
最後の3番目に、上杉謙信の行動は、戦国時代にはほとんど機能を果たさなくなっていた、室町幕府が示す秩序をどこまで信頼していたかという問題につながる点です。室町幕府の統治機構は、トップに将軍を置き、その将軍を補佐する「管領」という役職があり、その下に各地の守護大名たちがいるという支配構造になっていました。
室町幕府は、足利尊氏が幕府を京都に移しました。かつての幕府があった鎌倉には、東国を統治するために第二の将軍である鎌倉公方が置かれました。やはり、この鎌倉公方にも補佐役がいて、これを関東管領と呼びます。そして、その下に関東の諸大名たちがいるわけです。
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