上杉謙信を越後に縛り付けた「肩書」へのこだわり 「義の武将」は作られたイメージにすぎない

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

少なくとも信玄はそのような効果を当てにして、使えるものなら利用しようということで信濃守護になったのです。つまり、室町幕府の秩序を信頼しているかどうかはさておき、信玄はそれを利用しようという立場を取ったことになります。

謙信の関東出兵は、じつは「略奪」のため!?

謙信の関東進出について、立教大学名誉教授の藤木久志先生は、「越後国が貧しかったので、謙信は略奪を行うべく関東へ進出した」というセンセーショナルな説を提唱しました。

『日本史の偉人の虚像を暴く』(宝島社新書)。書影をクリックするとAmazonのサイトにジャンプします

先述したように、今日では米どころとして知られる新潟ですが、戦国時代の当時はそこまで多くの米は取れませんでした。

江戸末期になって100万石の石高にまで成長しましたが、江戸初期には35万石しか取れませんでした。寒冷な越後は、米の栽培には不向きだったのです。雪対策がしっかりとできるようになるまで、生産高は向上しませんでした。そのため、飢えた兵たちが食べるもの欲しさに関東へ略奪に行くというのもわからなくはありません。

他方で、謙信が亡くなったとき、上杉の蔵には莫大な金が貯蔵されていたという話もあります。越後では青苧(あおそ)という植物が特産品でした。木綿が一般化するまで、衣服の原材料として重宝されていた品です。直江津を拠点とした日本海交易を通じて、これを京都まで運び、売りさばくことができました。

その結果として、相当な資金はあったはずですから、わざわざ略奪しなくても交易で買うことができたと思いますが、略奪すればタダだと考えていたのでしょうか。いずれにせよ、藤木先生の説が本当ならば、「義の武将」というイメージはやはり崩れてしまうでしょう。

本郷 和人 東京大学史料編纂所教授

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

ほんごう かずと / Kazuto Hongo

1960年、東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本資料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事