そこで、今日は、私の考える社会資本を、具体的な一例を挙げて説明してみよう。
先日、いつものように地下鉄に乗った。そして、よく見かける光景だが、車いすの高齢者が介助者と一緒に乗っていて、駅に着くと、駅員が車いす乗降用の板を持ってきて、降車を補助した。周りの人はこれに手を貸すか、スペースを空けて協力した。このようなことがあっても、地下鉄は20秒と遅れず発車し、順調に運行が続き、私は目的地にスマホサイトの示す時間どおりに着き、約束の場所に向かった。
「社会資本がきちんと存在している状態」とは?
社会資本がきちんと存在している社会であれば、まず、①車いすが入手可能である。②介助する人がいる。次に、③車いすの人を見かけたら、知り合いでなくとも、その場にいる周りの人々が助けてくれる。
そして、④そのニーズに気づいて、これをシステマチックに解決しようとする。⑤地下鉄の運営組織がこれに対応して、あらかじめ板などを用意する。⑥どこの車両に助けを必要とする人がいるか、その人がどこで乗降車するか、これらを認知する仕組みを作る。
⑦これを実施する担当者(ここでは地下鉄駅員)が、自分の活動をいったん脇に置いて、これを実施する。⑧この補助が、全体の地下鉄運営に悪影響を与えないようにする。あるいはある程度のロスがあっても、カバーして、持続可能なものとする。
①から⑧までを1つひとつみていこう。まず、①が成り立たなければ、大きな困難に直面する。車いすという発明が必要だし、これを生産する技術が必要で、それを購入できる経済力も必要だ。これは、社会資本の成立には、一定水準の経済発展が必要ということだ。
衣食足りて礼節を知るという言葉どおりで、学問的な実証研究でも社会資本と、1人当たり国民所得の相関は示されている。②は、雇える経済力でもいいし、家族というものでもいいし、ボランティアというものもある。徴兵制のように、ボランティアの強制もありうるが、それは社会主義的だ。共産主義なら担当の公務員を作る。これは社会のスタイルにより、さまざまだ。
③は、その社会の優しさであり、同時に平和で、他人を不必要に警戒しなくて済む社会である。いつひったくりや暴行にあうかわからないような社会では、周りを見渡す余裕はないし、隙を見せたら、別の人にやられてしまうかもしれない。
そもそも車いすで外出しようとすること自体が本人にとって危険かもしれない。一方、乗客全員がスマホだけを見ていれば、車いすの人が降りようとしていることに気づかない、いや乗っていたことすら認識していないだろう。これは別の意味で、社会資本が失われている社会だ。他人に対する完全な無関心である。
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