そういう道もあるだろう。しかし、私は、これでは味気ないだけでなく、事実として正しくないと思う。
教科書のケーススタディとしては美しいが、おそらく、ペイしない。車いすを助けているから、この地下鉄に乗ると意思決定する人はいないし、だから就職するという人もいない。寄付などもほとんどしない。
しいて言えば、この駅員が、業務ではあっても自分はいいことをした、という満足感が得られ、従業員満足度が上がるということはあると思うが、定量化できないだけでなく、おそらく、その駅員のエネルギーを別の活動、金銭的な収益に集中したほうが、長期的な利益でさえも実際には増えるだろう。
「形式的な経済合理性を追求しすぎない価値観」を共有
つまり、株式会社の利益最大化とは矛盾し、経済合理的な行動ではないのである。それにもかかわらず、この駅員はやりたいと思うし、この会社も、それはぜひやれと言う。これこそが社会資本があるということだ。
そして、これは、株式会社の形式的な経済合理性を徹底的に追求しすぎない、多少の精神的余裕が駅員にも経営者にも、そして組織にもある、ということから生まれていると私は思う。
こういう株式会社のほうがいいんだ、ということが、社会構成員全員(もちろん株主も含んだ)の価値観として共有されていることにより、生み出されているのだ。この価値観が社会で共有されることが重要なのだ。それは、感性あるいは最近の日本語で言えば、人間力から来ていると思う。
最後に、⑧の車いすで生じた時間的なロスなどを組織でカバーする力、これがいちばん偉大なことだ。さまざまな要素の集合体、蓄積というよりも堆積の結果だ。社会の歴史そのものと言ってもいい。
たとえば、日本社会の時間厳守という慣習(?)も大きく影響している。誰もが「時間どおり」が重要だと思っているため、自然にこれを実現するために、無意識に社会構成員全体が協力する。無意識に全員が協力するというのも社会の歴史の堆積の結果だ。これこそ社会の力であり、この類の金にならない力に日本はあふれている。
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