禅僧が「終活フェア」で目にしたシュールな光景 「死んでも生きる気マンマン」の来場者たち

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結局、終活とは、当節なかなかラクに死ねないから、我々業者が手伝ってあげましょうという、死ぬまでの面倒をタネにした商売です。商売はそもそも生きている間だけの話で、死とはまったく関係ありません。

二度と死なないとわかれば「地獄」にも慣れる

みんな死んでも生きる気マンマンなので、「死後の世界」への関心は尽きません。「あの世」がどんなところか。死んだら自分がどこへ行くのか。地獄か、極楽か、興味があるようです。

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なかには、自分が死後どこへ行くのか本気で心配する人もいます。そういう人には、いつもこう話します。

「不安になることはありませんよ。あなたが行けるところなら、天国も地獄も似たようなものです。きっと言葉が通じるし、誰かがいますから。この世とあまり変わりません。それにあなたは、人生で飛び抜けていいことも悪いこともしてないでしょう? だったら、大丈夫。『その他大勢』のところに行きます。先に亡くなった身内もいるはずですよ」

私が思うに、今の「自分」が残るなら、極楽は平和すぎて、そのうち飽きてしまうはずです。どこへ行っても蓮の花が咲いていて、天女が舞っているだけですから。

地獄もすぐに慣れます。針山に寝かされようが、熱湯に沈められようが、もう二度と死なないとわかれば、そんなものの痛さは、たちまち神経痛と変わらなくなるでしょう。永平寺時代、厳しい修行で半身不随になりかかった私が言うのですから、間違いありません。

あの世の心配など、暇つぶしにすればよいだけです。死はどうせわからないのですから、それくらい気楽に考えていい話なのです。

結局、私たちがこの世でできるのは、決してわからない死を、なんとか受け容れる生き方を学ぶことだけなのです。あるいは、それが生きるということの、すべてです。

南 直哉 禅僧

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みなみ じきさい / Jikisai Minami

1958年、長野県生まれ。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店勤務を経て、1984年に曹洞宗で出家得度。同年から曹洞宗・永平寺で約20年の修行生活をおくる。『恐山 死者のいる場所』『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』(新潮社)、『善の根拠』『仏教入門』(講談社)、『死ぬ練習』(宝島社)など、著書多数。

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