禅僧が「終活フェア」で目にしたシュールな光景 「死んでも生きる気マンマン」の来場者たち

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舟そのものにも価値があると、思っている人は多いでしょう。しかし、川を渡れるから舟には価値があるのであって、「舟そのもの」に価値があるわけではありません。

道具がお役御免になれば、捨ててもかまいません。舟も乗り捨てです。価値がないのであれば、舟を乗り捨てても、まったく惜しくはないはずです。

だから、川を渡りきって人生が終わるときも、怖れたり、悲しんだりすることはありません。未練を持つことなく、スッと向こう岸に降りることができます。

「かけがえのない人生」なんて、ただの思い込み

「かけがえのない人生」と言いますが、しょせん自分の思い込みです。人生で最大の仕事は何かと言えば、死ぬことです。なぜそれが大仕事かといえば、「死」の正体が誰ひとりわかっていないからです。

死の正体がわかれば、手の打ちようはあります。でも、その大仕事の正体は一切わからないし、生きている限り、わかりようもありません。

ぜんそくで苦しんでいた子どもの頃、死の正体がどうしても知りたかった私は、周囲の大人に手当たり次第「死ぬって、どういうこと?」と聞いてみました。

すると決まって、「お星様になるんだよ」「天国のお花畑に行くんだよ」などと答えが返ってきました。子ども心に、「何を言っているんだ? コイツはバカなのか!?」と不信感を抱いたことを覚えています。

私が知りたかったのは死んだ後の話ではありません。しかし、誰も私の疑問に答えてくれる大人はいませんでした。私は、「そうか、死とは、誰にもわからないものなんだな」と理解しました。

もっともポピュラーな死のイメージは「この世でないどこかに行く」というものです。

たいがいは、この世とあの世に境目があり、関所のようなところに裁判官的「カミサマ」がいて、よいことをした人はよいところへ(天国とか極楽)、悪いことをした人はひどいところ(地獄)へ送り込まれる、そんなストーリーになっています。

少し前に、死んだら千の風になるという話も流行りました。風は、最初から最後までただ「風」です。「私」が、風になることはあり得ません。

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