父が狩る「大ネズミ」の唐揚げを食べる家族の日常 狩猟シーズンはほとんどスーパーで肉を買わない

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人間が飽きずに買い求めるように、肉は作られている。トレーに入っている肉を改めて見ると、すぐに料理ができるように薄くスライスされて小分けにされており、味にハズレがない。お金さえ出せば、手を汚すことなくこんな便利な肉が手に入る誘惑にはなかなか勝てない。もしや私たちも、貨幣経済に飼いならされている家畜なのだろうか。

命をいただく後ろめたさ

『いのちをいただく』(西日本新聞社)という本がある。原案者の坂本義喜さんは熊本の食肉加工センターで働いている。坂本さんの息子、小学校3年生のしのぶ君は、授業参観の日、社会科のいろんな仕事という授業で父親の仕事を「肉屋です」と発表した。

しのぶ君は学校の帰り際、担任の先生に呼びとめられた。

「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」

「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、血のいっぱいついてからカッコわるかもん」

「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも、肉ば食べれんとぞ。すごか仕事ぞ」

先生の言葉は、しのぶ君にとってどんなに嬉しかっただろう。しのぶ君は家に帰ると「お父さんの仕事はすごかとやね」と言った。坂本さんは動物を殺す仕事が辛くてやめたいと思っていたが、息子から思いがけない言葉をもらい、もう少し続けてみようかなと思う。

しのぶ君の担任の先生の言葉に、私は心を打たれた。狩猟をすることも、解体をすることも大変な仕事だ。文祥がそれらを自らに課している姿を見ているうちに、動物の命をもらって生きていること、私の代わりに、今日も誰かが、動物を殺す仕事をしていることを想像するようになった。

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