蔦屋重三郎"江戸のメディア王"になれた7大理由 みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

さらに蔦重は「業界への弾圧」をも活かした。寛政の改革による出版統制令の影響で、戯作の黄表紙や洒落本が弾圧されて発売禁止処分となり、狂歌絵本も一時的に停滞し苦しい立場となった。

しかし、蔦重は浮世絵や専門書、学術書に活路を見出し、弾圧前に劣らず話題となっている。

死後の繁栄も見据えたスムーズな「世代交代」

そして、蔦重は最終的に「みずからの死」までも活かした。

現代でもいえることだがカリスマ経営者のいる有名企業の世代交代は難しい。また、蔦重は特段長生きしたわけではなく、当時の平均寿命程度の年齢で亡くなっている。しかし、死を前にして「二代目蔦屋重三郎」たる番頭の勇助に店舗や版権をスムーズに移行したことで、その死後も蔦屋の屋号は隆盛を極めていった。

ここまで蔦重の「成功のひみつ」をいくつか挙げたが、総じていえることは「時代背景」そのものを活かしたことだ。

耕書堂を創業した安永元(1772年)は側用人の田沼意次が老中を兼任し「田沼時代」が本格的に始まった。「年号は安く永しと変はれども諸色高直今にめいわ九(年号〔元号〕は明和 9 年から安永元年へと変わったが、諸物価は高く、今まさに迷惑している)」と狂歌に詠まれるような世相だった。江戸の人々は物価高に振り回されながらも、ゆるい世を謳歌して、出版業界は隆盛を迎える。

その後、6年限定の「寛政の改革」で、世は引き締められ出版業界は弾圧されるが、その反動で改革を放棄した50年間におよぶヤケっぱちの「大御所政治」が始まり、出版業界はさらなる全盛期へ驀進する。

その初期に蔦重は出版業界の土台を築いた上で亡くなっている。以上のことは運や縁ではあるが、偶発的なマイナスの出来事が起きた不運のときにこそ、それをプラスの幸運に変える明るさや新しい発想、一度つかんだ縁を離さない握力の強さが、吉原というグレーゾーン出身の一庶民だった蔦重を成り上がらせたポイントであろう。

(出所:『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化: 元祖・敏腕プロデューサーの生涯と江戸のアーティストたちの謎を解き明かす』より)

※外部配信先では図表を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください

企画編集・制作を行う版元でありながら、卸売問屋や小売として流通の末端にまで関わった蔦屋重三郎は、その存在感が増すにつれて、広告や宣伝を含めた「総合メディアプロデューサー」としての顔を強めていく。

次ページ新人を発掘し、さらに未来の人材を育成していく
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事