蔦屋重三郎"江戸のメディア王"になれた7大理由 みずからの「死後の繁栄」まで見据えていた
安永3(1774)年の遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』の刊行に始まり、翌年の吉原細見本への本格参入から10年と経たない天明3(1783)年、細見本は耕書堂(こうしょどう/蔦重が開業した版元兼書店)の独占出版となった。
江戸時代の結婚は家や親が決めるものだったが、その点で蔦重が生まれ育った吉原は「自由に恋愛ができる」という特殊な場所だった。だからこそ、男たちは遊女や遊女屋選びに真剣だった。ゆえに蔦重の細見本は売れたのである。
吉原細見本のみならず、蔦重は黄表紙や洒落本の戯作や狂歌絵本など娯楽本の版元として確固たる地位を築いていく過程で、吉原の遊女屋に戯作者・狂歌師らを集めて接待する。それも吉原出身だからこそ自然だったといえるし、顔も利いたことだろう。
次に蔦重は、「7歳のときに両親が離縁して、引手茶屋(ひきてぢゃや/遊女屋へ客を案内する茶屋)へ養子に出た」という「家庭の事情」を活かした。
吉原唯一の出入口であった「大門口(おおもんぐち)近く」という好立地にあった義兄の茶屋の軒先を借りて、「小売」の小商いからスタート。それを軌道に乗せると、翌年以降「卸売」「貸本」「版元」へと事業を拡大していった。今も昔も、商売で特に大事なのは立地である。
また、この成功を期に日本橋に進出する際、両親を呼び戻したことも度量の大きさを示す「いい話」として評判になっていたはずだ。
「競合相手の失敗」や「流行」を活かし成り上がる
そして、蔦重は「競合相手の失敗」を活かした。吉原細見に関する本は、当初、鱗形屋(うろこがたや)孫兵衛の鶴鱗堂(かくりんどう)版が有名で、蔦重の耕書堂はその小売や編集を請け負っていたにすぎない。しかし、鱗形屋の手代(使用人)が起こした重板(じゅうはん/同じ物を改題して無断で出版すること)事件で出版が一時停止となった間隙を突き、蔦重は版元の事業に乗り出している。
また、蔦重は江戸における「流行(ブーム)」を活かした。
安永期(1772~1781年)には、唄浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)が大流行し、蔦重は唄浄瑠璃の正本・稽古本の出版を手掛けている。また、天明期(1781~1789年)には狂歌が大流行したが、蔦重は狂歌と浮世絵を合わせた「狂歌絵本」の出版を手掛けている。
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