花山院に矢を射かけたのは、自分の意中の女性のもとに、花山院が通っていると思い込んだからだ。ところが、実際に花山院が通っていたのは、伊周が好きな女性の妹だったというから、あまりにも間が抜けている。
傲慢なふるまいとは裏腹に、伊周には事態を悪いほう、悪いほうに考える小心さがあったのだろう。それゆえに、風向きが悪くなると、暴走してしまう。人生を自らの手で台無しにすることは、このときだけではなかった。
強運の持ち主だった伊周
伊周が強運の持ち主だったことは間違いない。「長徳の変」で完全に失脚したかと思えば、道長の姉で一条天皇の母である詮子が病に伏せたため、その回復を願う恩赦で罪が許されて、京に戻ってこられた。
しかも、伊周の妹・定子は愚かな兄の不始末のせいで出家したにもかかわらず、一条天皇の心をとらえ続けて、懐妊したうえに、3人もの子を出産。
そのうち2人目は男の子で、一条天皇の第1皇子というから、伊周にとってはミラクルというほかはない。
その後、定子は亡くなるも、伊周はこの第1皇子である敦康親王の伯父として、影響力を再び持ち始めた。しかし、伊周が息を吹き返してきたそんなときに、道長の娘・彰子が懐妊。第2皇子の敦成親王が生まれることになる。
ここでまた伊周の「暴走グセ」が出てしまう。それは寛弘5(1008)年12月20日、敦成親王の「百日(ももか)の儀」が開かれたときのこと。道長が孫の敦成親王を抱いて、その口に餅を含ませた。
和やかな雰囲気のなか、みなが盃を交わし合い、よい気持ちになり酔っぱらってきた頃、藤原行成が公卿たちの詠んだ歌に序題を書こうとした。
行成といえば、書の達人であり、彰子が一条天皇に入内するときに持参した屏風和歌でも、その腕前を披露しているくらいである。
ところが、このときに伊周が思わぬ行動に出た。行成から筆を取り上げたかと思うと、自作の序題を書き始めたのである。
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