日本銀行の独立性を殺したのはいったい誰なのか 歴史に禍根を残すことになった「8.7内田会見」

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元来、日銀という組織には優等生的な風土があり、非常にまじめで誠実な集団だ。信頼できる。その一方で、いやだからこそ、政治のドロドロや市場の「きったはった」には弱い。弱いと言うよりも、毛嫌いしている。

できるだけ、そのような汚らわしいものにはかかわりたくない。経済理論の、金融理論のきれいな世界で、理論的な論理の世界で生きていきたい。そういう人たちである。

一方で、その結果として、屈辱もあった。1985年のプラザ合意以降の急激な円高に対して利下げを迫られ、円高不況の名のもとに、経済自体は不況ではなく、むしろバブルが猛烈に膨らんでいったのに、政治の圧力が大蔵省経由で伝わり、利上げができなかった。土地バブルを早めに潰せなかった。その悔恨がある。「われわれの理論が政治、大蔵省に潰された」と。

だから、1998年に独立性を獲得して以降、このような汚れた政治的判断が入らないように、頑なに「中央銀行は物価の安定に専念する」という理屈を盾として、株式市場はもちろん、為替にもかかわらない、政治的な意向による金融政策への圧力を避けようとしてきた。

「異常な金融緩和をした張本人」にされた日銀

しかし、独立性を得た一方で、ある種の汚れ役を負っていた「大蔵省」という目の上のたんこぶだが、ある種の防御壁を失った。彼らは、マクロ経済理論も金融政策のアカデミックな議論もわからないくせに、「日本経済のために」と言って、以前は政策に圧力をかけてきた。

鼻持ちならなかったが、しかし、日本経済のことを思う気持ちは一緒だったし(手にする理論と視点が違うだけだった)、汚れていても、論理で、理屈で話し合える相手だった。

ところが、独立後、対峙するのは、それらを意に介さない政治家になった。デフレ脱却というかけ声、キャッチコピーに、すべての理論どころか理屈でさえかき消され、異常な金融緩和を迫られた。

それに従うしかなかった結果、株価が上がったことで、世間は「向こうの味方」についた。しかも、日銀が組織的に従ったために、日銀が異常な金融緩和の主体、主役、張本人だと思ってしまった。

今回、今までの政策の反動、ツケが円安や物価高として国民生活を襲ってきたときに、非難はすべて日銀に押し寄せてきた。

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