君はバートランド・ラッセルを知っているか 論理哲学はこうして発展してきた
そして本書において特筆すべきは、グラフィック・ノベルという表現形式だ。ノベルというだけあって、ラッセルと直接会ったはずのない人物との面会シーン等も含まれる。しかし、書簡や出版物を通しての交流は確認されており、カット割りや分かりやすさを優先するためにシーンを置き換えたと言った方が適当であるだろう。
特筆すべきは、グラフィック・ノベルという表現形式
論理学というと、数式一辺倒のイメージがあるかもしれないが、幼少時にラッセルを襲う狂気から守ったのは、幾何学の持つ数学的実在であったという。それゆえに代数・幾何、双方のアナロジーとして、著者たちはテキスト・グラフィックを用いるグラフィックノベルを選択したものと推察する。
つまり、結果的にコミックの形式が選択されたわけでもなければ、ノンフィクションの話をたまたまコミックにも仕立てあげたというわけでもない。内容と形式が不可分であり、表現技法を追求した結果として必然的にグラフィックノベルという形式へ着地したのである。
また、ラッセルのパラドックスのキーワードとなる「自己言及」を象徴するように、著者たち自身が本書の幕間に登場し、どのように演出していくかを話し合う風景も織り交ぜられている。
しかも、ラッセルの探求を結論付ける結びの場面においては、ギリシャ悲劇の『オレステイア』を引用するという手の込みようである。論理と狂気が生み出した悲劇的な結末、その先に新しい時代への希望を見出す。
本書を読んだ後、しばし呆然とした。自分にとって習慣化するほど好きなものの中ほど、盲点は潜んでいるのかもしれない。ノンフィクションがテキストを中心に書かれ、忠実に書かれているという前提の中だけで善しあしを判断し、形式そのものに目を向けることを疎かにしていたのは少し視野が狭かったな、と。
ノンフィクションをやや逸脱しているからこそ、その境界線が明確に可視化され、しかも自分が想定していたよりも外側にあると気付けたことが、最大の収穫であったと思う。そう感じるほど、本書のグラフィックノベルという形式には納得感があった。
内容と形式の間に記述された、もうひとつの物語。こういう実例を示させると、紙の本か電子書籍かなどという形式の違いが、実にさまつなものに思えてくる。
※画像提供:筑摩書房
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