原爆から70年、長崎の人々は核廃絶を訴える <動画>8月9日に長崎で起きたこと
8月9日、日本の長崎に住むお年寄りは、原爆投下から70年という記念すべき日を迎える。
広島に原爆が投下されてから3日後の1945年8月9日午前11時2分、米軍は「ファットマン」という異名を持つ原子爆弾を軍港都市長崎に投下した。この爆弾は上空300メートル(100フィート)で炸裂し、爆心地から半径1.6キロメートル(1マイル)全域を壊滅させた。
当時9歳だった峰徹さんは、原爆が落ちた瞬間、それを大きな雷だと思ったという。「あの日はとてもよく晴れていました。突然、目がくらむほどの閃光が走ったのです。はじめは雷だと思ったのですが、快晴の空に雷は変だとすぐに気付きました」と、爆心地から南西約2.5キロメートル(1.6マイル)離れた自宅にいて原爆の難を逃れた峰さんは話した。
「数秒後、強い爆風が自宅を襲い屋根が吹き飛ばされました。原爆から70年経ちますが、あの日のことは昨日の出来事のように鮮明に覚えています」
猛烈な爆風と数千度にも達した熱線は街全体に襲いかかり、建物を倒壊・破壊させた。長崎では原爆投下とそれに続く被爆疾患で15万もの人が死亡した。その6日後、日本は降伏し第二次世界大戦は終結している。
峰さんはほぼ無傷であった。ただ、その日の朝に5人の子どもを養うため食料を借り受けようと親戚のところに出かけた母親とは二度と会うことはなかった。
造船エンジニアとしての仕事を退いたのち、峰さんは長崎原爆資料館でボランティアとして働き、若い人たちに自身の体験を語っている。
もう一人、長崎の被爆者である羽田麗子さん(79歳)は、世界が日本の経験から学び、核兵器を廃絶してくれるよう願っている。
羽田さんの自宅は原爆投下地点から2.5キロメートル離れたところにあり、熱や放射線を山が遮ってくれたおかげで原爆直後は両親、3人の兄弟は無傷だと思われた。ところが2カ月後、羽田さんは放射線被ばくによるがんのため2番目の兄弟を失った。
羽田さんは養護教諭として40年間、日本の反核兵器運動に積極的に関わっている。「あらゆる核兵器がこの世界から根絶されるのを本当に待ち望んでいるという真摯なメッセージを伝えていきたいと思っています」。
世界には1万を超える核兵器が存在していると言われている(Bulletin of the Atomic Scientists Nuclear Notebook 2014による)。
日本史上もっとも悲惨な日を振り返るために何千人もの人が8月9日に長崎平和記念公園に集まる。参列者の中にはキャロライン・ケネディ駐日大使も含まれている。
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